「応仁の乱」(呉座勇一著、中公新書)は、乱の時期に興福寺のトップ・別当であった大乗院門跡経覚(だいじょういんもんぜききょうがく)の日記「経覚私要鈔(しようしょう)」と次代の大乗院門跡尋尊(じんそん)の日記「大乗院寺社雑事記(ぞうじき)」に書き残された奈良から見た乱の様子を基にしています。
4度も別当を務めた経覚の墓があるのが、大乗院門跡大安寺墓所です。復元された大安寺北面中房跡(僧坊跡)の道を挟んだ向かい側に石標が立っています。中へ入ると、三つの墓標や墓石、五輪塔などが並んでいて、真ん中の墓標が経覚のものと伝わります。
奈良時代に官大寺として威勢を誇った大安寺は次第に衰微し、室町時代には大乗院門跡の隠居所として己心寺(こしんじ)がありました。経覚は引退後もここを拠点に活動し、大和の動乱に影響を与えました。
なお尋尊は、興福寺境内の菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)の南東隅に墓所があります。
【奈良まほろばソムリエの会理事 石田一雄】
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