発表日 2024年3月16日
発表者 山下 裕章

 従来の考古学は、古墳の年代論や分布論、出土品の研究に力点がおかれて一定の成果をもたらしていますが、古墳はどうして造られたのだろうか、石舞台古墳石室の大きな石はどうして運ばれ据えつけられたのか等不明な点が多いのが現状です。
 本稿は土木から見た古代土木技術についての研究事例を紹介するものです。

1.古墳の土木

1.1 築造

  • 箸墓古墳とそれまでの弥生墳丘墓とでは土木的にみれば何が違うのか。それは、墳丘の盛土量の差。
    弥生墳丘墓は、その周りからの土で充足できたが、箸墓古墳から始まる古墳は巨大さゆえ、その周りの土だけでは不足し、他所から土を搬入する(客土)必要があった。
  • 国学院大学の青木教授の研究で、古墳時代前期、東日本と西日本では墳丘の盛土方法が異なっていることがわかった。しかし、その後は東日本でも西日本的工法を採用するようになった。
    【西日本的工法】墳丘予定地を整地したのち土手状盛土を配し、その内側に土手状盛土と同じ高さまで盛土する方法。
    【東日本的工法】墳丘中心付近から盛土を開始。その後、中心部分におこなった盛土に、順次肉付けしていくように盛土する方法。
  • 築造技術
    ①土塊・土のう積み工法:袋に包んだ土(土のう)やブロック状に切り出した土(土塊)を列状ないし面的に重ねていく。
    ②版築:土や砂を均一の厚さに敷きつめ、およそ半分ほどの厚さになるまで、細長い棒(突棒)でつき固めるもので高大化した古墳(高さを重視した古墳)に適用された。

1.2 前方後円墳の設計

 考古学者椚国男氏は、くびれ部幅(C-D)に着目し、多くの古墳を調査した結果、古墳の設計は、大きく3つのパターンに分類できるとしている。即ち
①日葉酢媛陵型:クビレ部が墳丘長の1/2より前方部側に入りこんでいる古墳
②応神陵型:クビレ部(CD)が墳丘長(AB)の中点(P)と一致する古墳
③仁徳陵型:後円部の直径(AP)が墳丘長(AB)の2分の1である古墳

日葉酢媛陵、箸墓古墳、神功皇后陵、成務陵他
応神陵、垂仁陵、崇神陵、コナベ古墳他
仁徳陵、反正陵、ウワナベ古墳、五条野丸山古墳他

 設計は方眼設計盤(16マス)で行なったとされ、地上に作図する場合には、方眼設計盤上に求めた長さを倍尺したと想定される。

中国河北省望都県の漢代の墓から出土した石製棋盤(16マス) (「図説世界文化史体系」中国(1)より)

1.3 仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の建設

大林組のプロジェクトチームが、現代技術と古代技術の比較による「仁徳天皇陵の建設」を昭和60年に検証している。

□計画の前提条件
  建設時期は昭和60年。建設の範囲は墳丘と2重濠(内濠、外濠)まで。

□施工条件
  工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用。
  労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない。
  作業時間は、1日8時間、ひと月25日間とする。

□その他の前提条件
  伐開除根面積は36.86万㎡
  墳丘土量約140万㎥、外濠掘削・盛土13.9万㎥、内濠掘削・盛土59.9万㎥、
  客土掘削・盛土74.2万㎥、葺石536.5万個(1.4万トン)、埴輪1.5万個

その結果
□総工期は古代技術では15年8ヶ月 現代技術では2年6か月
□総作業員数は古代技術では680.7万人(1日のあたり、ピーク時で2000人)、現代技術では29,000人(1日のあたり、ピーク時で60人)
□総工費は古代技術では796億円(昭和60年当時の貨幣価値)現代技術では20億円
と試算されている。

1.4 石舞台古墳の再現実験

 石舞台古墳発掘50周年の記念事業として京大工学部の高橋教授の論文(昭和12年)を基に最近の考古学の成果も取り入れながら巨石運搬と築造技術を「石舞台再現委員会」で実験された。

てこを利用して巨石を持ち上げる方法 (京都帝国大学文学部考古学研究報告1937, 14: 71-81)

その結果、
①巨石の運搬には修羅転木ロクロ等の道具を使えばこれまで考えられていたよりはるかに少ない人数で運搬可能であること、また綿密な運搬計画作成が必要であることがわかった。
②天井石をはじめとする石室の組み立てについては、石舞台の周りの地形や自然の力を巧みに利用していることがわかった。

2.築堤の土木

 ため池の貯水量は膨大で、大きな水圧が堤体にかかる。そのため築堤する際には堤体を強固にする技術的工夫が必要となる。

2.1 満濃池

 満濃池は日本最大級のため池で、外周は約20km貯水量1540万トン。文武天皇の時代(701年)に農業用ため池として造られた。しかし度重なる大洪水で池は決壊を繰り返し、空海が平安時代の初め(821年)満濃池を訪れ改修工事を指揮そしてわずか3ヵ月で満濃池を改修したとされている。
 この満濃池について、大林組のプロジェクトチームが、平成7年(1995)に検証している。

その結果、空海はその洪水決壊対策として
①ダムの水を放流する余水吐きの設置
②ダムの水圧を分散して受けるアーチ型堤体の採用
を行ったことがわかった。

2.2 狭山池

 狭山池は7世紀前半の飛鳥時代につくられた日本最古のため池(南北960m、東西560m)で、この狭山池の改修には行基、重源も携わったとされている。
 北堤の発掘調査により、堤の築堤から現代までの変遷が明らかになっており、東樋(ひがしひ水を流す管)の構造材が、年輪年代法で測定した結果、616(推古24)年に伐採された木であることが判明した。このことから、堤の構築は、7世紀初頭に比定されている。
 堤は、飛鳥時代の築堤から平成の改修まで、計12回の改修を重ねている。そのうち最初の改修となるのが、731(天平3)年の行基の改修である。
 この狭山池の北堤には築造当初の盛り土と奈良時代の盛り土には敷葉工法(植物の葉、枝、樹皮などを敷き並べながら土を積みあげる)が用いられていた。敷葉は盛り土の補強・圧密促進とともに土の堤に浸透した水分を抜き去るドレン(導管)の役割があったと考えられている。

3.道路の土木

 敷葉工法は築堤だけでなく、低湿地に道路を通す際、古代官道を通す際にも有効な技術であった。道路での敷葉工法は、基礎部分に限定した使用のため、道路面よりも高い構造体の築堤とは使用方法が異なるが、上との摩擦力を高めてより構造体を堅牢にしようとする点では築堤と共通する。
 道路遺構にみられる特徴的な土木技術は、敷葉工法以外にも、道路下部に進行方向に直交して丸太を敷く、敷丸太工法とでもよぶべき技術も用いられていた。

敷葉工法(奈文研ブログ(139)古代の軟弱地盤工法より)

【参考図書等】

・土木技術の古代史 青木敬 吉川弘文館
・古代の土木設計 椚国男 ロッコウブックス
・季刊大林 No20 1985 王陵
・季刊大林 No40 1995 満濃池
・季刊考古学 第102号 土木考古学の現状と課題
・季刊考古学 第108号 東日本の土木考古学
・季刊考古学 第137号 土木技術(古墳構築・築堤・道路)
・行基と知識集団の考古学 近藤康司 清文堂
・実験推理飛鳥石舞台 NHK
・高橋逸夫:石舞台古墳の巨石運搬並に其の築造法、京大 文学部 考古学研究報告 第14冊、1937
・土木技術Vol.76 No.8 2021
・狭山池の改修とその技術の変遷 建設機械施工Vol.69 No.8 August 2017
・近ツ飛鳥博物館
・狭山池博物館

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