史跡探訪サークル「天理周辺の史跡と天理古墳群を楽しむ」

史跡探訪サークルは、11月18日の土曜日に石上神社・内山永久寺跡・奈良歴史芸術文化村・西山古墳・天理教教会本部を訪れました。

冷たい雨が降るツアーになりましたが、20人の参加者は和気あいあいと元気に栄華の儚さ、静けさにたたずむ大伽藍の跡や古墳を巡りました。また、最後に天理教教会本部の中を見学しました。天理駅から商店街を抜け、石上神宮を訪れました。雨なので鶏は、小屋の中。お参りの後、静かな境内でひとりひとり自己紹介をして、話がはずみました。

石上神宮

石上神宮
神剣「布都御魂(ふつのみたま)を祀る神社
社号:「日本書記」垂仁・雄略・天武各天皇紀、「古事記」神武天皇段に「石上神宮」、履中天皇即位前紀に「石上振(ふる)神宮」と記載
創建: 「先代旧事本紀」によると創建は崇神天皇のときとされ物部氏の遠祖・伊香色雄命が、神剣と伝来の瑞宝を奉斎したとされている
祭神: 祭神は「布都御魂(ふつのみたま)神」で、延喜式には「石上坐布都御魂神社」とある。
社格: 延喜式には名神大社とされている。貞観9年(867)正一位の神階を贈られ平安時代末期には二十二社の中の七社に、明治4年(1871)には官幣大社に列せられ、また、明治16年に神宮号の復称が許されている。
禁足地: もともと本殿はなく、古来から禁足地が崇拝の対象とされてきた。明治7年(1874)大宮司であった菅政友(かんまさとも)が、政府の許可を得て禁足地を発掘し、約3メートル四方の石積みの中から鉄素環頭太刀・ヒスイの勾玉、琴柱形石製品、金銅製垂飾品、管玉など出土
ポイント: 国宝・拝殿(第72代白河天皇が宮中の神壽殿を寄進した建物)は現存する最古の拝殿

石上神宮に飾ってあった内山永久寺の絵図
摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)(国宝)

元来は、内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築。内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。内山永久寺跡まで、会話を楽しみながら小道を歩きます。

松尾芭蕉の歌碑

行く途中に松尾芭蕉が内山永久寺を詠んだ歌碑が建っていました。
「うち山や とざましらずの花ざかり」
池の淵に咲いている満開の桜に感動した様子を詠んでいる。

後醍醐天皇の萱御所跡の碑

1336(建武3)年に京都で幽閉されていた後醍醐天皇が吉野に脱出する途中、永久寺に入り、この場所を行在所(あんざいしょ)としました。

内山永久寺跡
永久2年(1114)、鳥羽天皇の勅願により創建され、時の年号から永久寺と称された。また、寺域が五鈷杵(ごこしょ)の形をし、内に山がひとつあったので内山の名を冠して「内山永久寺」と称したと云われている。総院号は金剛乗院で阿弥陀如来を安置し、真言宗(古義派)に属した。藤原後期以降、多数の堂塔を要して栄えた名刹で、鎌倉時代や室町時代の古文書からその隆盛を伺うことができます。延元元年(1336)には後醍醐天皇が吉野に遷幸する際に、一時立ち寄っている。文禄4年(1595)豊臣秀吉から971石の寺領を与えられ千石の法隆寺に匹敵する大寺となった。盛時荷は5町四方の境内地に50余坊の伽藍を持ち、江戸時代末期までは上街道の浄国寺北側から永久寺西門に至る石畳まで、参詣者が絶えなかったとか。明治時代の激動の流れにより、貴重な仏像、障壁画、仏画が散逸、西の日光といわれた豪華な堂坊も明治7年から9年までの間に礎石から瓦一枚に至るまで取り除かれ、本堂池だけが残った。
ポイント: 現在は、本堂池が残るだけの寂しいところですが、桜の頃には花びらが池の水面に散り敷き、本堂池の水面に映る姿を一目見ようと多くの人々が訪れにぎわいます。

まだまだ雨が止まない中、なら歴史芸術文化村に向かいました。各自で、施設の見学を行った後、交流にぎわい棟の多目的室で昼食をとりました。ゆくっり、皆様とおしゃべりをしながら交流をはかりました。

なら歴史芸術文化村
なら歴史芸術文化村は、歴史、芸術、食と農など、奈良県の誇る文化に触れることができる施設です。日本で初めてとなる文化財4分野(仏像等彫刻、絵画・書跡等、建造物、考古遺物)の修復作業現場の公開や国内外から招いたアーテイストとの交流、子どもを対象としたアートプログラムなどを実施します。単に見学する、一方向の解説を聞くことだけで終わらせず専門家や他の参加者と対話しながら、好奇心を広げて学びを深めるラーニングプログラムを実践。五感で感じ、さまざまな人と関わり、体験して「なぜ?」という新たな問いを生み出すことを、大切に、知を探求していく楽しさを提供していく施設。

石川さんのお話を聞いています。

食後、石川さんから「なぜ杣之内という地名がついたのか?」等、教えていただきました。みんな、熱心にお話しを伺いました。

杣之内  1879(明治12)年 山口村・木堂村・内山村が合併して生まれた。
山口村+木堂村+内山村=杣之内となった。
山口のと木堂ので「」を作り、内山のを「」でつないだ合成地名の先駆けとなった。

布留遺跡を取りまく杣之内古墳群
布留遺跡の周辺には、布留遺跡を拠点とした地域勢力との密接な関わりが想定される多数の古墳が分布する。南方の段丘上には杣之内古墳群が、北方の丘陵上には石上・豊田古墳群、丘陵南西裾には別所古墳群があり、布留遺跡を取り巻くこれらの古墳群は全体でも東西2km、南北3km程の空間に凝集している。確認された古墳の総数は 300基を超える。これらの古墳群は、布留遺跡を拠点とした地域勢力の墓域にほかならないと考えられている。

集合写真を撮りました。食後のみなさまの素敵な表情。
その後、直売所でお買い物を楽しみ、西山古墳に向かいました。

西山古墳 (天理高等学校の敷地内にある古墳)
国内最大の前方後方墳。墳丘は三段築成で、中段および上段が前方後円形 下段が前方後方形という他に例を見ない特殊な形となっている。筑成された時期は4世紀後半(古墳時代前期後半)で、規模は全長約190m後円部の一辺約90m、前方部の幅約87m、前方部の長さ90mです。古墳の周りには30~45m幅の濠が巡り、現在でも西と南西部は池となっています。墳丘の斜面には円礫があり、構築時は墳丘が円礫で覆われていたと思われる。埋葬施設は、竪穴式石室ですが、盗掘を受け、墳頂部に芝山産の板石が散乱していたそうです。鏡や鉄剣、鉄刀の破片などが後方部で、円筒、鰭付円筒、朝顔型・家形埴輪などが墳丘やその周辺で見つかっている。また、盗掘の際に、銅鏡、碧玉製金鏃 碧玉製車輪石、管玉、鉄製刀剣、などが出土したとも伝えられている、1927年国の史跡に指定された。(被葬者:物部氏一族との説あり)
ポイント: 一般的に古墳には木々が茂り、古墳の全景はおろか、墳丘からの眺めを体験出来ません。しかし、西山古墳では下草刈りのお陰で古墳の大きさを実感し、奈良盆地の眺めを楽しむことが出来るお勧めのポイントです。

雨も上がり、最後の天理教教会本部に向かいました。

「教会本部の前は通るけど、中には入ったことがない」とおっしゃっていた皆様を本部の方が丁寧にご案内してくださいました。まず、南礼拝場から入り、東礼拝場でお話しを伺いました。「ぢば」を中心に東西南北の礼拝場があり、その広さに驚きました。そして、東回廊から教祖殿、祖霊殿、西回廊を進みました。「東回廊は、船大工さんが建て、西回廊は、宮大工さんが建てられた」とお話しがありました。釘を使っていないのに、東回廊には、釘隠しの飾りがついていました。船大工さんが船を作る時のイメージを表されたそうです。

西回廊

天理教教会本部神殿
創造説話「元初まりの話」は、こう始まります。『この世の元初まりは、泥の海でした。神様は、そのさまを味気なく思われ、人間を造り、その陽気ぐらしするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれました』人間は、そもそも仲良く陽気に暮らすために創造された存在で、人生の目的は「陽気ぐらし」にあると明かされています。創造主である神様のお名前を、「天理王命(てんりおうのみこと)」と申します。私たち人間を生み育ててくださった親なる神様という意味で「親神(おやがみ)様」とお呼びします。そして人間創造の際に、最初に宿し込まれた地点を「ぢば」と言います。現在その地点には、人間創造の元なる地点の証拠として「かんろだい」が据えられ、礼拝の目標としています。親神様は、この「ぢば」にお鎮まりくださっています。人間創造の元の場所である聖地「ぢば」を中心に、天理教教会本部の神殿が建っています。神殿では、毎日のおつとめ、毎月26日の月次祭などが勤められます。神殿を四方から取り囲む四つの礼拝場は、合わせて3157畳の広さがあり、月に一度の祭典日には多くの参拝者で埋めつくされ境内地いっぱいにあふれます。
神殿と礼拝場だけで 3157畳 もありますし、その他の境内地を含めると約160,000m²もの広さになります。これはだいたい東京ドームが3つ入るほどです。

天理教教会本部を後にして、帰宅の途につきました。
次回のツアーは、3月に計画しています。

史跡探訪サークル  文章作成・写真撮影 石川雅司・松浦文子