「京田辺の観音様に魅せられて」感想記

12/14(日)実施・・・参加者12名

コース・・・・ 近鉄三山木駅 → 寿宝寺(重文:木造千手観音立像、約千本の手があります) →咋岡神社(飯岡) → 飯岡古墳群 → 咋岡神社(草路城跡)→法泉寺(十三重石塔)→観音寺[大御堂](国宝:十一面観音立像)→同志社大構内(筒城宮伝承地碑)→JR同志社前(近鉄興戸駅)

本日は京田辺市観光ボランティアガイド協会の「藤野隆司さん、荒井達雄さん」が案内(ガイド資料あり)してくださるので、世話人も、いつもより、ゆったりした気分でスタートできました。朝はきれいに晴れあがっていい天気になりました。しかし寒波襲来で寒い! 恒例となってきたストレッチで体を温めてからスタート。

ウォーキング前のストレッチ

京田辺は一休寺(酬恩庵)を境として、南が奈良文化圏、北が京都文化圏と大きく別れているようです。奈良・京都の視点からすると、エアーポケットですが、南をめぐる今日のコースは奈良の寺院と遜色のない美しい仏さまがらっしゃいます。
寿宝寺さんの十一面千手観音さんは、実際に千本の手を持つ観音さまとして、唐招提寺・葛井寺の観音さまとならび称せられますが、この観音様を日の光で拝しますと、堂に差し込む優しい光で観音さま全身が浮かび、お顔の瞳の奥から赤く光を放つ怒(いかり)の相が浮かび、身がしまり緊張が走ります。月の光の下では、腰より上半身が浮いて、眼が優しく頬がふっくらと慈悲の相が現れ、こころに柔からな温かさを与えて下さる。照明器具による日光と月光下での尊顔を再現していただきしました。「法会は慈悲相の下で行うので、夕方から夜にかけて行うことが多くなります」と寿宝寺の奥様が話をされていました。

寿宝寺の山門前

ガイドの荒井さんの案内で、寿宝寺さんから、刈り入れの終わった稲の株跡から芽吹いている田んぼのあいだを暫く行くと、集落の杜が見えてきます。木津川の開鑿碑があり、そこから集落に入りほどなくすると、京都の自然2百選の咋岡(くいおか)神社の巨木スタジイ脇にでます。社殿に八十八歳の米寿祝いの「升と、すり切棒」を額にいれ、拝殿の欄間にところせましと奉納してあります。静かな神社ですが、奉納升の多さで村人が大勢で祝っているような気配を感じました。

咋岡神社(飯岡)

飯岡の丘陵地あたりには古墳が数多くあり、それは継体天皇に関わる皇子や孫にあたる人の古墳と伝承され、4世紀から6世紀ごろの古墳といわれています。またこのあたりも継体天皇の筒城宮の伝承地の一つになっています。その根拠の一つが、東には北の京都方面(巨椋池)に下る木津川を望むことができ、西に京田辺の市街地が遠望でき、眺望のよいことと地理的な要衝であったことにあります。

飯岡 古墳群

宮津地区にある佐牙(さが)神社に伝わる「本源記」には「仁徳天皇の頃、大陸から酒造りに才のある「曽々許理」が山背で酒造りに励んだ」。古事記の応神天皇記に「渡来した酒造りの名人・須々許理が大陸の酒造りの技術を伝えた」とある。また神功皇后が三韓遠征の際、三個の酒壺を神社背後の山上に安置し、帰国後その霊験に感謝して社殿を創立したとの伝承あります。[ガイドさんの資料より]

酒屋神社

曽々許理・須々許理は日本書紀の仁徳天皇の皇位継承争いで、瑞歯別(ミツハワケ・のちの反正天皇)に仕えた酒の伝説をもつ曽婆可理(そばかり)と思われます。ですから読みは「そばかり」と考えます:加藤宣男
社殿は一間社流れ造りで、正面に千鳥破風、向拝の前面に軒唐破風の珍しい建築様式です。昼食をこの境内の広場ですませました。広場の隅に「明治天皇遥拝碑」の石柱が建っていました。石柱は碑文から見て不思議にも北向きです。そこで3、4人で討論、明治天皇は主語か述語か、伊勢神宮なら東向きのはず、明治神宮なら北だろうがいかにも遠方過ぎるなど意見が出た。ガイドさんも良く分からないとのこと、メンバーの知恵者が一人、「これは明治天皇の桃山陵への遥拝所だ」と・・桃山陵なら明治天皇も、京都へむけた北向きでも理解できる。これで全員納得した。(メデタシ・メデタシ)
法泉寺の十三重石塔は、西大寺の叡尊の建立と伝える。基礎石に「弘安元年季11月26日起立之大工猪末行勧進相良印」と刻まれている。伊行末の流をくむと見られる。叡尊はこの八年後宇治の浮島十三重石塔を建てている。本尊は十一面観音立像で草むらから顕現したといわれ、「草内」の語源となった。ここから小学校を挟んだ東南方向に草内の咋岡神社がある。この境内裏手の杜一帯は1485年、畠山氏に対し一時的にも一揆側が行政権をもった山代一揆の舞台となった草路城跡で神社の周りは堀となっていてその名残をとどめている。

法泉寺の十三重石塔

奈良時代の木心乾漆の十一面観音立像は聖林寺の観音様と、ここ観音寺の観音さまがあげられるが、観音寺の仏様はなんといっても、美術品を保護するあの邪魔な透明のガラスケースで守もられているのではなく、厨子のなかにあり、住職が開帳されて般若心経をあげていただいてから、手が届く距離で拝観させていただける。古から観音さまへの信仰がつづいていることが実感できる。

観音寺本堂での参加のメンバー

白洲正子さんは聖林寺の観音さまを戦後に拝観したときに「いくら鑑賞が先立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境においてみるべきである。」と書かれている。美しさでは聖林寺の観音様と双璧であり、この観音様はいっしょに泣いて頂けるような優しさがありました。もう一つ、古くから続いている東大寺修二会の「おたいまつ」も、観音寺から東大寺に運ばれる。
筒城宮は古代史に大きく2つ足跡を残している。
その一つが磐之媛伝承である。奈良検定のテキストは「『日本書紀』によれは、仁徳天皇が八田若郎女を寵愛したため、磐之媛命の怒りが解けず難波宮に戻らなかった。・・・」と書かれている。古事記では磐之媛は筒木(つつき)の韓人・奴理能美(ヌリノミ)の家に入っている。そして筒城岡の南に宮室を造ったのが筒城宮だとしている。記紀では磐之媛は嫉妬の多い女と書かれているが、磐之媛は民間から出た最初の皇后である。一方八田皇女は応神天皇の皇女で、れっきとした皇族であった。(ただし、仁徳からは母は違うが妹である)。こうしてみると皇族とそうでない身分による違いの軋轢があったのではないだろうか。仁徳は磐之媛が死んだ翌年八田皇女を皇后にしている。

同志社大学構内の筒城宮伝承地跡

もう一つが継体天皇の宮である。
継体天皇は樟葉で即位し、5年後に筒城、12年後に乙訓、20年後の秋に磐余玉穂宮に入っている。古墳時代を通じて最大の戦争である継体・岩井戦争について、日本書紀では「新羅がひそかに、賂を磐井におくった」と述べている。〝継体と百済〟に対する〝磐井と新羅〟の対立があった。磐之媛の奴理能美は百済の韓人である。
日本と百済・新羅の関係を古事記と日本書紀からみると、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言われている。応神天皇は神功皇后の子で神功皇后は新羅の皇子、天之日矛の七代の子孫である。継体は新羅の血筋になる。なぜその継体が新羅と戦争をするか? 糸がもつれてしまった。
ザックリ考えると、日本列島は人類が発生していないので、弥生時代でも、古墳時代でも、律令時代、当の日本人は過去の渡来人であった。我々の先祖は大陸からの渡来人である。その先祖たちは中国の王朝を継ぐし、朝鮮半島の王朝も打ち立てたと考えたらスッキリした。
一方で、日韓の戦争を概観してみると、継体・岩井の戦争から、斉明天皇の時代の「唐と新羅」連合と「倭と百済」連合の白村江の戦いや、奈良時代の恵美押勝の新羅征伐論、安土桃山時代の秀吉の朝鮮征伐、明治時代の西郷隆盛の征韓論、昭和の第二次大戦など日韓の戦いが起きました。朝鮮が日本を攻めるのは古代に於いては新羅の皇子アメノヒボコの侵略、神宮皇后・誉田王と忍熊王の戦い。白村江の戦いの後の唐と新羅の倭征伐論などが思いつく。これに共通することは、戦いを仕掛けた方が国内の事情を抱えて、国外に眼を向けさせようとしている構図が浮かんでくる。
筒城宮を紐解いていったら、今日に日中韓の問題の淵源にぶつかってしまった。
観音寺さんの観音さまが生まれた時代は物質的な文明は不足していたであろう、しかしこの時代の精神文化は崇高であった。どうも今の人たちは物質文明の進化を求めに求め、精神文化を空気のように当たり前と思っている節がある。とんでもない奢りだ。京田辺の一日は寒さもあって、精神文化が少しでも上向いた日でした。

文:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 加藤宣男   写真:同 小林俊夫