~市町村指定文化財約200件の取材を終えて~
2025年2月24日
保存継承グループ
はじめに
保存継承グループでは、2015年~2024年の約10年間、県指定・市町村指定文化財の調査・取材をしました。奈良県指定文化財(史跡、名勝、天然記念物、有形民俗文化財)の調査終了後は、文化財の保存に向けて特に対応を急ぐ必要があると考えられる項目をまとめ、県に提言を行いました。
2023年1月~2024年11月の約2年間は、奈良県下の市町村指定文化財(建造物、彫刻)の保存の状況、今後の課題等について取材を行い、約300件の対象のうち約200件の取材を終えることが出来ました。
関心が高いとはいえない市町村指定文化財(仏像)だが、人里離れたところ、街中の小さな会所で素晴らしい仏像に出会いました。そしてそれらを守る地域の方たちの熱い思いにふれました。この貴重な感動を紹介し、併せて、今後の文化財の保存・継承に向けた現状・課題について報告します。
ただ、今回の「私の推し」のプレゼン大会で発表した文化財のうち、所有する数件の自治会から、盗難などの懸念からホームページへの公開許可をいただけませんでした。許可をいただいた文化財のみの記事になりますことを、お断り申し上げます。
1, 市街地で守られている、知られざる仏像たち
① 木造地蔵菩薩半跏像 (奈良市角振町自治会管理)

〈奈良市指定文化財指定日 1988(昭和63)年3月3日〉
・像高:73㎝
・平安時代後期、12世紀頃以降に流行する、片脚を踏み下げて坐る地蔵菩薩半跏像。
平安時代後期の穏やかな表現を残しているが、厚みを増した肉取り、整然とした衣文の流れ、 襟の形に合わせた割首技法など、鎌倉時代の特色が随所にうかがわれる作品で、13世紀前半の本格的仏師の手になる美作として高く評価されています。
片脚を垂下して坐る姿は、奈良市内に所在する同様の姿の地蔵菩薩像の中で古い例の一つとして貴重ということです。
・厨子内の扉の内側には四天王像が描かれています。
・延命地蔵とも呼ばれ、年1回(7月24日)の地蔵盆に厨子が開帳されます。毎月24日には法要が営まれます。
・隼神社
御祭神は、攘災神・角振隼総別命(つのふりはやぶさわけみこと)、配祀神は、市寸島姫命(いちきしまひめみこと)。
創建は舒明天皇の時代と伝わりますが、平重衡の兵火(1180年)、興福寺の大火(1278年)の火難で現状の祠となったということです。(『隼神社由緒書』より)

② 木造十一面観音立像 (奈良市井上町自治会管理)

〈奈良市指定文化財指定日 2008(平成20)年3月4日〉
・像高47.9㎝ 総高73.5㎝
・左手に華瓶(けびょう)を持ち、蓮華座の上に立っています。衣は後方へ、風になびくように表されており、躍動感に富んでいます。端整な容貌や宋風美術の影響を思わせる装飾的な表現と、寄木造りで、全身が金泥に覆われていることなどから、鎌倉時代後期作と推定されます。
・同会所には指定仏以外に無指定の十一面観音立像が安置されています。『井上町町中年代記』に、元禄3(1690)年に町会所の品々が記録されており、その中に「くわんおん(観音)2体」とあることから、そのころ既に町内に伝存していたと考えられます。
※(『井上町町中年代記』は、江戸時代以来、井上町の総代によって書き継がれてきた町の記録で、全部で7冊あり、17世紀後半から幕末までの内容を含む4冊が市指定文化財)
・ならまちに鎮座する「井上(いがみ)神社」は、井上内親王と他戸親王の霊を祀っています。
井上内親王は聖武天皇の第一子で、称徳天皇崩御後、白壁王(後の光仁天皇)と結婚。他戸王が誕生し、王は立太子の礼を受け、内親王は皇后になります。しかし藤原式家が「同母兄弟の山部王を天皇(後の桓武天皇)にするため、「皇后が陰謀を画策し呪詛した」との濡れぎぬを着せて母子を現在の五條市に幽閉しました。二人は幽閉先で同日に薨去したと伝えられます。
この「井上内親王呪詛事件」後、様々な不幸が起こったため、桓武天皇らは母子の怨霊鎮めの願いから御霊神社を建立。井上神社は延暦19(800)年、勅命により創建されたとのことですが、度重なる火災のため、現在地に遷座したと伝えられます(同神社由緒参照)。
・「廃仏毀釈」の時期、同神社神宮寺に祀られていた2躯の十一面観音立像は、町民により避難され、その後戻されて今日まで祀られ守り続けられているとのことです。

2,感動!地域に支えられてきた保護活動
① 阿弥陀如来坐像 (下市町・専念寺所蔵)
〈下市町指定文化財指定日 1975(昭和50)年11月1日〉
・本堂内部に阿弥陀三尊形式で安置。指定仏の阿弥陀如来像は像高87㎝の木造漆箔。上品下生の印を結び、藤原様式の流れを追う藤原末期ごろの造像で、衣などすべてが藤原和様の著しい特徴を示しています。
・先代住職が亡くなられてから住職不在であったが、檀信徒の熱心な要請で30数年ぶりに住職が入ってこられ、檀信徒と共に庫裏の建替え(取り壊しの際に寺の史料が出てきた)、稲荷社の150年ぶりの再建、山門前の井戸の整備などを行ったということです。


②木造男神・女神坐像 (大淀町・大岩自治会所蔵)
〈大淀町指定文化財指定日 2019(平成31)年3月27日〉
・男神像3躯・女神像3躯の計6躯の神像が合祀されています。いずれも像高が16.1~18.7㎝の小像ですが、木造素地仕上げで束帯の男神像と唐服の女神像という本格的な作風で、均整の取れた姿から鎌倉時代後期の作とみられています。
・昭和33年と平成26年に神像の調査が行われ、神像の状態が良好ではないことが判明。
一旦、6躯の神像に応急措置を施したうえで、神像は神社を離れて別場所に保管されました。

(大淀町HPより)

③身代わり地蔵(木造地蔵菩薩立像) (高取町・谷田地区所有)

〈高取町指定文化財指定日 2021(令和3)年3月31日〉
・針葉樹材(ヒノキ材か)の一木造り、彩色、像高:88㎝、平安時代中期作。
・もとは、標高140mにある常楽寺に安置されていたのですが、明治時代に廃寺となり、その後一時復興したものの、またも無住寺となりました。
・無住寺にそのままの状態でお祀りするには、盗難や不審火などが危惧されました。また檀信徒の高齢化により、山の上にある寺への参拝も辛くなっていきました。そのため、地域住民が協議を重ね、公民館で安全に祀られることになったのです。
・「身代わり地蔵」という名前のある地蔵菩薩は、昔ばなしとしても親しまれ、「身代わり地蔵」の絵本も出版されています。
3,過疎地で佇む文化財
①後醍醐天皇坐像 (天川村 位衆傳御組(いしゅうおとなぐみ)所蔵)
〈天川村指定文化財指定日 1994(平成6)年6月3日〉
・像高33.6㎝、室町時代の作、桜の寄木造り。
・毎年2月11日に行われる「御朝拝式」で祀られます。

②十一面観音像 (天川村 位衆傳御組(いしゅうおとなぐみ)所蔵)

〈天川村指定文化財指定日 1994(平成6)年6月3日〉
・像高42㎝、室町時代の木彫、位衆傳御組の本尊。
・南北朝時代に後醍醐天皇が吉野から天川に落ち延び、山の岩屋に籠った際、夢で十一面観音が現れ、河合寺(かごうじ)が安住の場所であるとのお告げを受けたとの言い伝えがあります。
・後に後醍醐天皇は、十一面観音立像を守り本尊として信仰し、山には観音峯という名が付けられ、河合寺を「黒木の御所」と称しました。
・毎年5月3日に十一面観音立像を祀る観音会式が観音峯の岩屋で行われています。
※「位衆傳御組(いしゅうおとなぐみ)」について
南北朝時代、天川村(当時は天川郷)の住民は各地区で傳御組(おとなぐみ)の名称をいただき、南朝方天皇守護のため忠勤を務めました。その中で上三村(中越・川合・沖金)の人たちは後村上天皇から、位衆傳御組(いしゅうおとなぐみ)という称号を授かり、南朝4代天皇への忠義を子々孫々引き継いできたのです。
・後醍醐天皇坐像・十一面観音立像と共に後南朝の血をひく寺井家の所蔵であったが、役場が出来た昭和47年に、位衆傳御組が譲り受け役場の資料室で保管することになりました。
4,約200件の市町村指定文化財の取材を終えて
① 過疎化と文化財の現実
・少子化による地域住民の減少。
・無住寺の増加。
・仏像盗難の増加。
・市町村指定文化財保護への補助金が、国や県指定文化財に比べて低い。
・ほとんどの自治体が市町村指定文化財の保存と活用の政策構想、施策がない。
などの問題があります。
② どうする! 過疎地の文化財
【さらなる過疎化が進む前の、短期対策として】
・無指定文化財を一軒一軒訪ね歩いて、所有者に取材。専門家との連携も検討しつつ、現状をデータベース化し盗難予防と保存と継承へとつなげたい。
・壊れている仏像の部材を紛失しないよう、専門家のアドバイスを得ながら接着剤などで応急措置を行うことをすすめたい。
・文化財を地元の歴史や文化と共に保存継承し、地域の活性化を支援したい。
【止まらない過疎化(無住集落化)から美術品を守るために、長期対策として】
・無住集落になると、仏像は信仰の対象物ではなく、美術品としての価値のみが問われてくるでしょう。
・美術品としての価値ある仏像から選別され、博物館、地域の中核寺院などに遷され、保管されていくと思われます。
・その際、指定仏にしておくことにより美術品としての価値が認められ、行政としては守る義務が生じてきます。
保存継承グループとしては、無指定仏ながら素晴らしい文化財の指定が得られるように地域住民に働きかけ、支援していきたいと思います。