発表日 2024年3月16日
発表者 梅田 加都
はじめに
大和国一之宮である大神神社のご祭神が出雲の神さまであり、大和平野を縁取る神々しい山々の多くに、出雲由来の神さまが鎮座している。記紀神話では、ヤマトは出雲から地上の政権を譲ってもらい、そのかわりに天上世界を出雲に任せて、王家がその後大切に出雲の神々を祀っていくのである。ヤマト黎明期の大王は出雲の巫女である女性と結婚している。一体、古代出雲にはどれほどの影響力があったのだろうか。出雲こそ「ヤマト王権発祥の鍵」ではなかろうか。まずは、古事記に忠実に学ぶことから始めてみたい。そして謎多き「ヤマト建国の真実」に少しでも近づいていければと願う。
1. 「古代出雲」の影響力
① 記紀神話、風土記等の文献より 古代出雲の英雄、大国主神。出雲神話の主神に位置づけられており、古事記においては、大穴牟遅神、葦原色許男神、宇都志国玉神、八千矛神、大国主神と名が変遷する。
たくさんの名と多くの妻子を持ち、出雲大社の主祭神として祀られている。国造り、国譲りなど日本の礎を築いたとされる大国主神にまつわる主な神話は、越国、信濃、紀伊、因幡、伊予、播磨、丹波、筑紫、大和に展開される。特に越国との関わりは深く、八千矛神(別称の一つ)が高志国に住む沼河比売(ぬなかわひめ)を妻にしようと求婚の歌を詠み、二神は結婚した。万葉集にも詠まれる「渟名河」とは現在の姫川で、この国最古の宝石である「翡翠」の産地である。沼河比売はこの地の翡翠を支配する祭祀女王であった。縄文時代の翡翠交易の分布図を見て驚いた。東日本一帯に広がる巨大な翡翠交易圏。関ケ原付近を境に東と⻄が真っ二つに分断されている。産出地の越国は、東日本一帯をも治める力を持っていたのではないか。新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が「建御名方神」で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。
出雲の国譲り神話では大国主に国譲りの可否を委ねられる御子神の一人である。大国主が翡翠女王と結婚したことで、越が出雲に統一されたとすれば、その血を引く建御名方神が、国譲り可否の決定権を持つことにも納得がいく。また「ヌナ」とつく人名として、古事記には、神沼河耳命(綏靖天皇の和風諡号)、建沼河別命(阿倍臣らの祖)、渟名城入姫命(崇神天皇皇女)、他にも代々この名が王家で継承されていく。これを踏まえ、王権と越国には密接な関係があったと想定する説がある。
② 考古学の成果より 「隠岐の島の⿊曜石」交易は翡翠より古く、遙か3万年前から日本海側をつなぐ、この国最古の「人と文化の交流ネットワーク」が見えてくる。隠岐⿊曜石は高品質でナイフの役割を果たす生活必需品であった。祭祀道具の一つである「櫛」もまた、⿊曜石を⽤いて作られていたようだ。古代においては日本海側こそが表舞台であり、出雲や越国は交易主役級の資源を通じて、大陸とも独自ルートを築き、最先端の技術や情報をいち早く掴んでいた地域であったのだろう。「荒神谷遺跡」の銅剣358 本、「加茂岩倉遺跡」の銅鐸39 個など全国最多の想像を超える遺跡が発掘されており、その後に「四隅突出型墳丘墓」が出雲地域のシンボルとなっていく。およそ1800年前に突如造られなくなった頃、ヤマトにて前方後円墳が出現するのである。大国主の神話伝承地、⿊曜石交易圏と四隅墳丘墓の分布図は符号する。古代出雲には列島随一とも言える影響力があったとみて良い。
2. ヤマトの中の「出雲」
① 奈良県内に26社ある「名神大社」の内(1社は廃絶)、出雲由来の神さまを祀る神社は、15社。
鴨都波神社、葛木御歳神社、葛城一言主神社、高天彦神社、高鴨神社、大名持神社、丹生川上神社(中社)、大神神社、穴師坐兵主神社、宗像神社、飛鳥坐神社、石上神宮、大和神社、多坐弥志理都比古神社、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社 二座(廃絶)。以上から、数社紹介する。
② 「鴨都波神社」の主祭神は、都羽八重事代主命で、古事記において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれた神さまである。海上安全、漁業、商業、市場の神として全国多くの神社に祀られる。
別称は、八重事代主神、玉櫛入彦嚴之事代神、都味⻭八重事代主神、辞代主神など多くある。
出雲の国譲り神話では、最初に大国主に国譲りの可否を委ねられることから、御子神の中でも別格の位置づけにある。配神には、下照比売命、建御名方命が祀られ、本殿境内社に出雲社と三輪社が並ぶ。
③「葛木御歳神社」のご祭神は、御歳神(後に紹介する大年神の御子神)。相殿には大年神(須佐之男命の御子神)、高照姫命(大国主命の御子神)が祀られる。御神徳は、五穀豊穣・稲の守り神、年を司る年神さま、お年玉の由来に関わる神さまとして有名。全国の御歳神、大年神の総本社であり、創祀は神代。古来より朝廷で豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭には、まず本社「御歳神」の名が読みあげられた。葛城山麓の「御所市中⻄遺跡」では、弥生時代約2500年前の全国最大規模の水田跡が見つかっている。この地に鎮まる出雲の神々と最先端の土木技術、稲作のノウハウをもたらした技術者との関連が興味深い。古代の土木王とは誰なのか。後ほど記紀神話を手がかりに、人物像を探ってみたい。
④「大和神社」のご祭神は、中殿:日本大国魂大神(後に紹介する大年神の御子神)、左殿:八千戈大神、右殿:御年大神である。「倭大国魂神」とは、大地主大神(地神)で、崇神期に皇女渟名城入姫を斎主として宮中の外で祀らせるようにしたのが創建となっている。淳名城入姫は、髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。替わって祭祀を受け持った市磯⻑尾市、大倭直との所縁が気になる。
⑤「多坐弥志理都比古神社」もまた、第四社に姫御神(玉依姫命)出雲の巫女神を祀っている。神武天皇の皇子「神八井耳命」を祖とする日本最古の皇別氏族「多氏」は、⺟系が出雲の巫女である。「多」は「太」「大」「意富」とも記され、出雲系を示す姓。古事記編纂者の太安万侶は多氏の子孫にあたる。
3. 三輪山に鎮まる神々
① 大和国一之宮である大神神社のご祭神は三柱、大物主神は奥津磐座、大己貴命は中津磐座、少彦名神は辺津磐座に祀られている。磐座位置から見ても大物主と大国主は別の神である。大物主大神は、古事記においては、坐御諸山上神、美和之大物主神、意富美和之大神と表現されているのに対し、日本書紀では、大三輪之神、大己貴神の「幸魂・奇魂」、そして事代主だと記されている。また後に紹介する飛鳥時代の祝詞「出雲国造神賀詞」では、「倭大物主櫛玉命」の名で登場する。
摂社・磐座神社に祀られる少名毘古那神は、波の間からガガイモの殻の船に乗ってやってきた神さまで、大国主と「出雲の御大(みほ)の御前(みさき)」で出会い、兄弟の契りを結び、協力しながら農業、国土開発、医療の技術を広め、国づくりを行った。「酒は百薬の⻑」、酒造技術もその一環。湧き出る温泉を初めて医療に⽤いたエピソードが伊予国風土記にあり、愛媛県道後温泉のおこりとなっている。海の向こうからやって来た小さな「来訪神」により数多の恵みがもたらされたこと、大小の神々がペアで国造りを行ったこと、多様性に満ちた数々のエピソードがより印象的に伝え残されている。
大神神社には、摂社12社、末社31社、計43社があるが、その多くが出雲由来の神々である。
② 古事記・上つ巻より 「大国主の国造り」大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国(海の彼方)へ去ってしまわれた。大国主神が「これからどうやって私一人でこの国を造っていけば良いのか・・・」と思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、「立派に私を祀ってくれるのなら、共に国造りを完成させましょう」、「私を倭の⻘垣の山々の東の山の上に祀りなさい」と告げた。
③ 古事記ではこの直後に、「大年神」のエピソードが唐突に語られている。大年神とは、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた神さまで年神さまとも呼ばれる。兄弟には宇迦之御魂神がいる。
大年神の后は三人登場し、伊怒比売(イノヒメ)との子に、大国御魂神(大和神社のご祭神)、韓神、曽富理神、⽩日神、聖神。⾹⽤比売(カヨヒメ・カグヨヒメ)との子に、大⾹山⼾臣神、御年神(葛木御歳神社のご祭神)。天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)との子に、奥津日子神、奥津比売命、大山咋神、庭津日神、阿須波神、波比岐神、⾹山⼾臣神、羽 山⼾神、庭高津日神、大土神。羽山⼾神と大気都比売の間に、若山咋神、若年神、久久年神、等多数。前後の文脈や構成を踏まえ、古事記においては、大物主=大年神と解釈することが自然である。
④ 日本書紀に大年神は登場しない。「私がいたからあなたは立派に国造りができたのですよ」と過去形で表現されており、大己貴神が「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私はあなたの幸魂・奇魂である。」と答えている。大神神社の祈りの言葉となっている「幸魂・奇魂」とは何か。江⼾時代の本居宣⻑の解釈によると、神の霊魂は、和魂(穏和で調和的な神霊)と荒魂(荒々しい力を示す神霊)に分けられ、和魂に属するのが、幸魂(人を幸せにする神霊)と奇魂(不思議な力で物事を成就させる神霊)であるという。大物主神は和魂を三輪山へ、荒魂を狭井神社に鎮めたという。
⑤ 摂社・狭井神社の正式名称は「狭井坐大神荒魂」で、大神荒魂神を主神とし、大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多々良姫命、事代主神を配祀している。また書記には、大物主=事代主とも記されており、幸魂・奇魂は、血を分けた子、家族、分身と解釈することができないだろうか。
4. 「国譲り神話」と「出雲国造神賀詞」
① 「国譲り神話」の中で、大国主神は、自分の子どもたち事代主神と建御名方神が良いというのであれば、お譲り致しますと答えている。美保崎で釣りをしていた事代主神は了解、建御名方神は反対し、建御雷神と力競べをしたが負け、信濃国に移った。繰り返しになるが、建御名方神は越国の偉大な翡翠女王の血を引いている点で、越付近の土地相続権を持っていたかと推察できる。では事代主神はどうか。
系譜をたどると、須佐之男命と櫛名田比売命に辿り着くのである。これはスーパー相続人に当たる。そんな彼は釣りをしながらあっさり、「はい、どうぞ。」と答え、天逆手を打ち、身を隠したという。しかしその後、ヤマトの葛城山麓、三輪山周辺その他様々な場所にこれでもかと出没する。彼こそ、国譲りのフィクサーだ、と断言したいところであるが、今回は先走らず、次の研究対象に留めおくとする。
② 大国主神は天にも届く宮殿を造ってほしいと云い、そこに移り住むことを望んだ。大国主をはじめ出雲族が神々となり天上世界を担っていくことの象徴がこの宮殿である。平安時代中期の子供の口遊には、「雲太」=出雲大社(大国主の宮殿)が一番高い建物で、続いて「和二」=大和の東大寺が二番目、「京三」=平安京大極殿が三番目となっているように、平安時代には認知されていたことが覗える。
また、境内から出土した多数の巨木「宇豆柱」は鎌倉時代のものと推定されているが、それ以前のことは想像するしかない。縄文時代には巨木を建柱する技術はあったのだから、あり得ない話ではない。
③ 「出雲国造神賀詞」 (いづものくにのみやつこのかむよごと)
「出雲と大和の国譲り」によって、出雲族は豊葦原水穂国の統治権をヤマト連合に譲渡し、以後、神々となって、大和に祀られていく。天武朝に成立したといわれる「出雲国造神賀詞」とは、出雲国造が天皇の世を寿ぐ祝詞で、出雲国造が新任の時、出雲の神々を1年間潔斎して祭った後、都に入り、神々の祝いの言葉を天皇の前で奏上し、臣従を誓うというもので、霊⻲2年(716)から天⻑10年(833)までの間に15回確認できるという。
「乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備(現・三輪山)」に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備(現・高鴨神社)に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提(現・河俣神社)に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備(現・加夜留美命神社)に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮(現・出雲大社)に静まり坐しき。」
ここで、八咫鏡に取り託けられた己命の和魂「倭大物主櫛厳玉命」について、持論となるが特筆しておきたい。そもそも八咫鏡とはヒメ巫女が所有するものではないのか、との疑問が湧くのである。己命と鏡の組み合わせがどうもミスマッチに思えて仕方がない。次に「櫛」の名が付加されていることに着目する。沼河比売の「ヌナ」のように、偉大なる⺟系の名の一部を血統の証として名に残すと想定するならば、古事記で最初に櫛が付くのは、出雲の櫛名田比売である。己命の和魂とは、出雲一族繁栄の始まりの女性と捉えることはできまいか。日本書紀では、「幸魂・奇魂」と表現されているが、書紀でのクシナダヒメの表記は、「奇稲田姫」なのである。もし奥津磐座で「櫛」が見つかったなら・・・?!
5. 三輪山祭祀
① 大物主神の結婚(三輪山伝説)
古事記の「丹塗矢伝説」では、「神の御子」というべき媛女、三嶋湟咋の(摂津の豪族)の娘として、勢夜陀多良売が登場する。大物主神はすっかり気に入って、トイレ中に赤く塗った矢に化けて、トイレ中に突いた。そして産まれた子が、姫多々良伊助依姫である。
日本書紀では、事代主神が三島溝樴姫、或いは玉櫛姫に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫命とあり、大物主が事代主と記されているのは、大物主に代わり事代主が制した、と考えるべきであろう。
先代旧事本紀の「地祇本紀」によれば、都味⻭八重事代主神は八尋熊鰐となって三島溝杭の娘活玉依姫に通い、三子を生んだという。三書の記述より、勢夜陀多良売=玉櫛姫=活玉依姫と解釈できるが、父親の名だけは、共通して「三嶋溝杭」となっている。
② 三嶋溝咋とは
三島地方(茨木市、高槻市)を統率していた豪族で、川の水利を管理していた。溝は農業⽤水の水路、その溝を支えるのが咋=杭。水田耕作や古墳築造に水利管理はつきもので、古代の土木王らしき人物像が見えてきた。三島溝咋耳一族を祀る「溝咋神社」は茨木市にある式内社で、社伝では、第十
代崇神天皇の頃に創建されたとある。周辺には三島鴨神社、鴨村・鴨林といった地名が残り、鴨=出雲事代主との関連が見えてくる。また三島といえば、静岡県三島市に鎮座する「三嶋大社」は、御祭神が大山祇命、積羽八重事代主神の御二柱で三嶋大明神と称す。伊予国一の宮・大三島「大山祇神社」の御祭神も当然大山積神である。大山津見神とは、古事記には、出雲の地の守護神で「山の神」とある。水田や古墳に最新技術をもたらした「古代の土木王」に大きな神格が重なってくるではないか。
③ 神武天皇の結婚
ヤマト入りしたイワレビコは、大物主神と三島溝杭の娘の間に生まれた「姫多々良伊助依姫」を后とすることで、出雲族と親戚となり盤石な体制を整えていった。第 2 代天皇以降も、古事記では主に師木県主、日本書紀では鴨王とし、いずれも事代主を祖とする後裔から皇后を歴代輩出し、三輪山祭祀を天皇家が引き継いでいったとされる。ところが、8代天皇あたりから、后の出自が饒速日を祖とする物部氏族(伊⾹色謎)へと移り変わって行き、物部氏の勢力が際立ち、祭祀が変わっていったのである。
ここで、あの疫病が起こる。
④ 大物主神の祟り
崇神期に起こった疫病では、国⺠の約半分が亡くなったとされる。大物主神の血を引くヒメ巫女と結婚することで、天皇家が三輪山の祭祀を引き継ぐも、 第10代崇神天皇の頃には、疎かになっていた。
大物主神が「疫病の流行はわたしの意志によるものだ。オオタタネコによって私を祭らせるならば、神の祟りは起こらず、国内も安らかになるだろう」と告げたとの神託を得、オオタタネコを探したところ、河内の美努村で見つけ、「そなたはだれの子か」と尋ねると、「私は、大物主神(事代主神)が、陶津耳命の娘の活玉依毘売と結婚されて生まれた子櫛御方命。その子が飯肩巣見命。その子が建甕槌命。
その子が私、意富多多泥古です。」と答えた。「おだまき伝説」として古事記に記された大物主神と活玉依姫の恋物語は、意富多々泥古の出自を明らかにしている。大神神社摂社・神坐日向神社には上記の御子神が、摂社・若宮社には、大直禰子が祀られている。オオタタネコの表記については、古事記・意富多多泥古、日本書紀・大田田根子、現在の大神神社では大直禰子となっている。
崇神天皇は、物部連伊迦賀色許男命に命じ、神聖なたくさんの平たい土器を作り、天神と地神を祭る神社(倭笠縫邑と大和神社)を定めた。赤盾八枚・赤鉾八竿で墨坂の神(坂の神・宇陀 墨坂神社)を祀り、⿊盾八枚・⿊鉾八竿で大坂の神(⾹芝 大坂山口神社)を祀った。
大物主神の血を引く者が神主となることで、ようやく祟りが収まり国内は平穏になった。崇神天皇の安堵はいかほどであったか。意富多多泥古を神主と定め、三輪の大神を祭らしめた日に、杜氏の祖と言われる髙橋邑、活日が神酒を捧げて詠んだ歌が残っている。
「この神酒は わが神酒ならず 倭なす 大物主の醸みし神酒 幾久 幾久」神主となった意富多多泥古は、神君(三輪君)、鴨君(賀茂朝臣氏)の祖となった。原初、出雲のヒメ巫女に始まり王家の皇女へと継承されてきた三輪山祭祀は、ここで女性から男性祭祀へと移った。
6. 結びとして
大物主神は偉大な神。しかし崇神期のヤマト王権が、祖先への畏敬の念を忘れた時、「祟り」をも起こす正体不明の恐ろしいモノノケとなって現れ出た。疫病が起きた時、王家(天ツ神)だけでは収めることができず、旧勢力(国ツ神)と協力し合あうことが求められた。
ここで崇神天皇は抵抗することなく、神意に従い、畏敬なる神を丁重に大切に祀った。大物主神(事代主)直系子孫の意富多多泥古による祭祀を通じて、神として再び祀ることに成功し、祟りを収めた。
モノノケも祟りも無いのだ、 皆、神なのだ!
「大和に祀られる出雲神」を通して、我々日本人特有の八百万に調和していく宗教観の源流を感じることができる。三輪山こそ、精神史上の「大和」が誕生した地である、と宣言したい。<了>
<出典>
・現代語古事記 (学研) 竹田 恒泰 (著)
・日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫) 宇治谷 孟 (翻訳)
・三輪山の大物主神さま(東方出版) 寺川 真知夫 (著)、大神神社 (監修、読み手)
・国つ神 大物主大神−古事記の語る倭国の誕生 (大美和 第146号)
菅野 雅雄(第17回三輪山セミナーin東京 講演録)
・神話の聖地 出雲 (NPO法人出雲学研究所) 平野 高司(著)
・日本列島に映る「古代出雲」紀行 (明石書店) 保高 英児(著)
・「海の⺠」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 三浦 佑之(著)
・出雲と大和―古代国家の原像をたずねて (岩波新書) 村井 康彦 (著)
・物部氏の盛衰と古代ヤマト王権 (彩流社) 守屋 尚(著)
・古代出雲と大和朝廷の謎 (学研文庫) 倉橋 日出夫(著)
・古代出雲ゼミナールⅦ−古代文化連続講座記録集 (ハーベスト出版) 島根県古代文化センター編