知っているようで知らない!
~大敗した白村江の戦いの後、どうやって唐と関係を改善したのか~

発表日 2026年2月7日
発表者 梶本 恵三

はじめに

今から約1400年前、緊迫する東アジア情勢の中で日本が独立した国家としての地位を国際的に確立するため荒波を超えて唐に向かった志の高い遣唐使たちがいました。彼らは、世界最先端の律令制度や文化を日本に持ち帰り天皇を中心とする律令国家の建設に大きく貢献しました。
今回の講演では、この遣唐使の活躍と苦難に迫ります。

天平うまし館の遣唐使解説コーナ-より

1.遣唐使の大きな目的

唐は289年間続きましたがこの内の208年の間に15回遣唐使は派遣されました。遣唐使を通じて国際基準を整備しないと国際的に自立した独立国として認められないことを学びました。

遣唐使は重点3項目(律令制度・都・国史)に関する情報を収集するのが大きな目的でした。
重点3項目以外にも仏教・建築技術・音楽・儒学・文学・漢詩文・美術工芸・都市計画・医術などあらゆることを学ぶため派遣され、特に、仏教は多くの経典を持ち帰りました。

2.遣唐使の概要

(1) 使節の構成員:大使は日本を代表する最高位の外交官
(2) 長期滞在者:15~20年滞在(留学生・学問僧)
短期滞在者:1~2年滞在(請益生・還学僧)
(3) 遣唐使の選定条件
遣唐使は将来を嘱望されたエリ-ト中のエリ-トでした。高い教養と広い見識が必要なのはもちろんですが美しい所作や堂々とした立ち居振る舞いができてしかも容姿端麗という条件もあったようです。これが後の唐との交渉で大変効果的に威力を発揮することになります。遣唐使は国家事業のため朝廷内で審議の上、天皇の勅命で任命されました。
(4)航路
航路は大きく分けて2航路ありました。北路と南路です。

北路は朝鮮半島沿いに陸地を見ながら行く比較的安全な航路です。南路は東シナ海の大海原にいきなり出る乗員にとっては恐怖の航路でした。北路は遣隋使の頃から朝鮮半島が新羅によって統一される頃まで使われました。南路は702年に唐と国交回復交渉に派遣された遣唐使から使われるようになりました。

3.全15回の遣唐使は目的別に4期に分けられる

(1)第1期は遣隋使の延長のようなものでまだ小規模でした。
遣隋使で隋に留学していた人達を連れて帰るのが大きなミッションでした。

(2)第2期は白村江の戦いで倭国(日本)が大敗した後に派遣されました。

(3)第3期は遣唐使が一番華やかだった時期と雲行きが怪しくなってくる時期になってきます。
第7回遣唐使では33年間国交断絶していた唐と国交回復に成功します。第10回の遣唐大使は光明皇后の甥の藤原清河で遣唐副使は吉備真備、4船で550人の大船団を編成していました。出発は華やかな大仏開眼の翌月に出発しました。往路は順調で唐では玄宗皇帝に大変丁重にもてなしを受けたようです。しかし、帰りの復路では藤原清河と阿倍仲麻呂が乗った第一船が南方のベトナムに流されてしまい乗組員の大多数が現地人に殺されてしまうという悲惨な状況に遭遇してしまいます。結局その後も藤原清河と阿倍仲麻呂は日本に帰ることができませんでした。この回では鑑真が別の船に乗船していて同じく南方に流されてしまいましたが沖縄経由で何とか無事日本にたどり着いています。

丁度、この頃、唐でも安史の乱が起こり玄宗皇帝が唐を脱出する事態が起こります。この乱を契機に唐は衰退モードに入ってゆき遣唐使に対する支援も削減されてゆくことになってゆきます。

(4)第4期は日本でも政争が繰り返されていた時期で遣唐使の意欲も低下している時期でした。第15回では4隻が全損事故を起こし100余名の犠牲を出してしまいまい結局894年に菅原道真が唐の国力が衰退したことによる待遇が悪化したことなどを理由に遣唐使が中止されました。

4.白村江の大敗で国断絶した唐とどうやって国交回復したのか?

白村江の戦い以降、唐とは約30数年間国交断絶を余儀なくされていました。

持統天皇は崩御した天武天皇の構想である自立した律令国家の建設を実現するため唐との国交回復を強く求めました。失敗が許されませんから交渉役には絶対的エースが必要です。
そこで、任されたのは粟田真人でした。

交渉相手は、白村江の戦いを裏で指揮した則天武功で中国の歴史で唯一女帝になった傑物です。密告政治や拷問を平気でする恐ろしい女帝でした。しかし、粟田真人の毅然とした態度を見た則天武后は粟田真人を絶賛しました。
則天武后が絶賛したことで日本と唐の国交が正式に回復し日本国という国号と大和朝廷を日本の正式な政権であることも承認されたのです。
ここで新たに日本国のとしてのスタ-トをきることが出きてその後の則天武后の孫の玄宗皇帝の時代に遣唐使が非常に厚遇されることにつながってゆきました。

粟田真人が帰国してから平城京遷都までは猛烈なスピ-ドで事態は進みました。

5.覚えておきたい遣唐使

6.遣唐使の航海の成功率は?

200年余りの間に日本から出航した遣唐使船は36隻ですがその内26隻は結果的に帰ってきているので70%は成功しているという見方がありますが南の島に漂流して地元民に殺される人たちもいましたのでやはり大変な航海だったことは間違いないでしょう。
先人の遣唐使たちの高い志と勇気に敬意と感謝の気持ちを表したいと思います。 

以上

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