『奈良の太平洋戦争』出版記念:戦後80年の節目に考える
~お水取りも奈良の仏像も大ピンチだった~
発表日 2026年2月7日
発表者 久門 たつお
はじめに
2025年は太平洋戦争が終わって80年の節目の年でした。これまで「奈良では空襲被害はなかった」「奈良に重要な軍事施設は設けられていなかった」という受け止めが多かったように思います。しかし、詳細に調べると両方ともそうではなかったことが分かり、それらをまとめた新書版『奈良の太平洋戦争』をこのほど、出版しました。そのうち、「空襲」「文化財疎開」「戦跡」の3つの章の中心にお話させていただきます。
【1】日中戦争・太平洋戦争時の死者数
「空襲」の説明に入る前に太平洋戦争期を中心に日本人の死者数を見ます。厚生労働省の資料で、1937(昭和12)年7月の日中戦争勃発から41(昭和16)年12月の太平洋戦争突入を経て、45(同20)年8月の無条件降伏までの死者数は海外・国内合わせて310万人とされています。内訳は戦闘員である軍人、軍人を支える軍属の合計で230万人、一般人は80万人。一般人の死者には日本で唯一戦場となった沖縄県で戦闘に巻き込まれた犠牲者や、東京、大阪をはじめ全国の都市などを対象にした米軍の爆撃機B29などによる空襲、広島・長崎への人類初の原爆投下の犠牲者が含まれます。
奈良県の戦死者数はどうだったのでしょう。奈良市古市町にある奈良県護国神社には明治維新以降、太平洋戦争までに戦死した軍人・軍属、従軍看護師など2万9245柱が祀られています。一方、日中戦争が始まった1937年から太平洋戦争終結の45年までの戦死者は約2万6000人とされています。日本の戦死者230万人の1%強に当たります。
【2】奈良への空襲は戦争末期に集中し、死傷者が相次いだ

県内初の焼夷弾空襲は1945年6月1日の正午ごろ、奈良市の法華寺町と法蓮町で起きました。この日の午前、米軍爆撃機B29約450機が大阪市内を空襲し、約3100人の犠牲者が出る第2次大阪大空襲がありました。その後、B29が基地のあるマリアナ諸島に戻る際、奈良市上空を飛行中、うち1機が焼夷弾を投下したとみられています。法蓮町では2棟が全焼し、火傷を負った佐保国民学校1年の女児が死亡、2人が負傷しました。法華寺町では住宅1棟が全焼、2カ所で部分焼があり、負傷者はなかったといいますが、全焼した住宅は法華寺の南わずか100㍍ほどの近さでした。


県内への2回目の焼夷弾空襲は奈良市での空襲の2週間後の6月15日に田原本町満田で起きました。今回は第4次大阪大空襲の当日の後でした。満田地区は田園地帯にあり、4人が死亡、33戸が全半焼しました。
この2回の焼夷弾空襲は国宝の仏像などを保有する社寺や県などの関係者に大きな衝撃を与え、既に進められていた文化財疎開の追加実施が急がれることになります。
戦争末期の1945年6月から8月は米軍戦闘機からの機銃掃射が県内各地で相次ぎました。そのうち多くの死傷者が出たのが7月24日の宇陀市榛原での近鉄大阪線での列車襲撃、8月8日の五條市住川町でのJR和歌山線の列車襲撃です。


近鉄大阪線の列車襲撃は、紀伊半島沖の太平洋上の空母から飛び立った艦載機の編隊が最初に滋賀県内の陸軍飛行場を襲撃した後、南下し奈良・榛原、三重・名張、和歌山・橋本の鉄道施設などを機銃掃射で空襲を行いました。午前9時すぎ、榛原駅に向かって走行していた3両編成の列車に1機が付近の住宅の屋根すれすれに旋回しながら機銃掃射。ほぼ満員状態だった列車内は多くの乗客が弾丸を浴び、社内は鮮血で染まったといいます。死者11人、重軽傷者27人とされますが、実際はもっと多かったとみられています。 高架線路と交差する下の2カ所の道路のコンクリート壁には機銃掃射の銃弾痕が計20個ほど残っていますが、一部でコンクリートの劣化が進んでいます。
和歌山線での列車襲撃は北宇智駅で起きました。いったん地区を北方向に飛び去った戦闘機2機が引き返してきて列車に機銃掃射を行い、機関士や乗客ら9人が死亡、39人が重軽傷を負ったとされています。


攻撃はこれで終わらず、近くの北宇智国民学校にロケット弾を撃ち込み、木造校舎は大破、機銃掃射で教諭2人、女児1人が死亡、教諭4人が重軽傷。さらに同じ五條の吉野川大川橋北詰め近くの建物への機銃掃射で1人が死亡、1人が重傷を負いました。

戦後の1949年に政府の経済安定本部調査課が発行した「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」では、県内の空襲による被害は死者68人、重傷90人、軽傷32人の計190人となっています。空襲の件数は記録されていません。2022年に帝塚山大学の末吉洋文教授とゼミ生が市町村史、学校史などを克明に調査して作成した「奈良県戦跡デジタルマップ」を公表し空襲は90件、死者は40人が確認されたとしています。
私が関係資料に当たった結果では、死傷者が出た空襲は18件で、死者は40人+α、負傷者は76人+αになります。
【3】空襲に備えた文化財疎開はさまざまな方法で続けられた
太平洋戦争が始まる1941年12月より早く東京帝室博物館、現在の東京国立博物館から奈良帝室博物館、現在の奈良国立博物館への文化財疎開が8月から11月にかけて極秘裏に進められました。疎開されたのは東博所蔵の法隆寺献納御物(ぎょぶつ)の金銅仏108点と、館蔵最優秀品の仏像、文書などの墨蹟(ぼくせき)226点の計334点で、4回に分けて行われたといいます。
なぜ奈良への疎開が行われたのでしょうか。前年の9月、日本はドイツ、イタリアと日独伊3国同盟を結んでいました。このころドイツによるロンドン空襲、逆にイギリスによるドイツの都市への空襲の応酬がありました。日本でも将来、東京が空襲を受ける可能性があり、東博が所有・保管する貴重な文化財の疎開を検討。軍部に照会したところ「奈良ハ宮内省関係地方トシテ防空上第一位ニ属スル安全地帯」との回答を受け、奈良への文化財疎開を実行したとみられます。
県内での文化財保全の方針については1944年1月、県が文部省と協議し、東大寺、興福寺、法隆寺の主要な建物に上空から目立たないように網などをかぶせる偽装などと、郊外の寺院への文化財疎開を決めました。
県は奈良市の円照寺を国宝第一収蔵庫に指定し、疎開は44年3月から始まり、8月までに東大寺の重源上人勧進帳1巻など、興福寺の木造弥勒菩薩坐像など、元興寺の木造十一面観音立像など、薬師寺の絹本著色板装吉祥天像など計29点を疎開させました。
さらに国宝疎開が必要な状況が続き、宇陀市の大蔵寺が国宝第二収蔵庫に指定されました。44年9月と10月に東大寺の西大門勅額など、興福寺の木造世親菩薩立像など、唐招提寺の木造菩薩立像、法華寺の乾漆維摩居士坐像、円成寺の木造大日如来坐像など、中宮寺の木造菩薩半跏思惟像など計16件を主に寄託先の奈良帝室博物館から移送されました。
45年6月、奈良市と田原本町で米軍による焼夷弾空襲が現実に起き、奈良安全神話が吹き飛んでしまいました。前年に県が中心になって円照寺、大蔵寺への文化財疎開が進められていましたが、奈良博にはまだ多くの仏像などの寄託品がありました。奈良博の要請で興福寺は県の助力も得て阿修羅像、木造無着菩薩立像などを吉野町の舟知家土蔵への疎開を7月に行いました。輸送には鉄道が使われ、駅への移動に人手が足りず、奈良刑務所の受刑者も動員したと伝わります。

法隆寺でも7月、百済観音、聖如意輪観音像などを柳生村、現奈良市の佃(つくだ)家に、梵天像、帝釈天像を生駒市の長弓寺などに疎開を行いました。
当時、軍部は本土決戦を唱えていて、県内の関係者の危機感は強かったのは間違いないところです。
正倉院の宝物は41年10月から11月に恒例の御物曝涼、いわゆる虫干しに合わせて宝庫で搬出のための梱包作業が秘密裏に進められました。この年の8月から11月に東博から奈良博に東博所蔵の法隆寺献納御物の金銅仏などが極秘疎開されたのと同じ時期の作業でした。ただ避難先の鉄筋コンクリート造りの正倉院事務所の補強改装工事が資材不足などのため進まず、梱包したまま改装の完成を待つことになりました。
何とか資材を調達し正倉院事務所の補強改装工事は43年秋に完成し、改装事務所と呼ばれました。早速宝庫などで搬出を待っていた御物の梱包の一部が改装事務所に移されました。
その後、45年3月の東京、大阪などで多数の死傷者が出るB29による大規模空襲が相次いだため、改装事務所と奈良博収蔵庫に追加の移送が行われました。さらに奈良県内でも45年6月に奈良市と田原本町で焼夷弾空襲が起きました。正倉院宝庫と焼夷弾空襲のあった奈良市法蓮町は約1.5㌔の至近距離で、危機感を高めた宮内省は改装事務所と奈良博収蔵庫に残り全てを移送したとされます。

戦後の46年秋、正倉院特別展観、実質的には第1回正倉院展が奈良博で開催され、20日間で14万7千人余りが観覧する盛況だったと伝わります。展示されたのは戦争中、正倉院宝庫から奈良博収蔵庫に移送されていた白瑠璃碗(はくるりのわん)など33点でした。白瑠璃碗は今のイランで制作され、シルクロードを運ばれ、中国・唐を経て日本にもたらされた逸品で、特に観覧者の注目を集めたということです。
【4】東大寺のお水取りも太平洋戦争の影響を受け非常事態に
東大寺二月堂で行われる奈良を代表する伝統行事の修二会。平安時代末期の平重衡による南都焼討ちで東大寺では大仏殿などが焼け、戦国時代には松永久秀と三好勢の戦闘で大仏殿が再び炎上しましたが、いずれも二月堂は無事だったため修二会は執り行われました。また江戸時代に二月堂が修二会中に焼ける非常事態が起きましたが、隣の三月堂を使用して行われました。
これらのピンチと並ぶ事態が太平洋戦争中の1944年の修二会期間中に訪れたといいます。修二会を執り行う11人の練行衆のうち3人に召集令状が届きましたが、行が始まると練行衆の代理は認められません。苦肉の策として残る8人でカバーし合って何とか満行にたどり着いたといいます。
翌45年も戦争の影響が続きます。修二会期間中の3月13日夜から14日未明にかけてB29による大阪大空襲が行われ、奈良からは大阪上空が赤く染まっているのが見えたと言われます。空襲後のB29が奈良上空を飛行することが考えられ、二月堂から光が漏れて、焼夷弾投下の目標にされないよう二月堂の全ての扉は閉じられました。行のうち火をつけた松明が堂内を12周ほどする「達陀(だったん)の行」では、扉が閉められたため堂内に煙とススが充満、練行衆は真っ黒で息苦しくなるため4周程度にとどめたと言われます。
【5】本土決戦になれば奈良は特攻機発進の中心的役割も予定されていた
県内に設置・維持された戦争に関わる施設や構造物は「奈良の戦跡」と呼ばれます。特に重要なのは海軍が天理市内に設けた大和海軍航空隊大和基地、通称で柳本飛行場跡と、陸軍が香芝市内の奇勝地の屯鶴峯(どんづるぼう)で掘削した屯鶴峯地下壕です。
43年12月に海軍の教育機関として三重海軍航空隊奈良分遣隊が天理市の天理教宿舎に置かれます。柳本飛行場の建設は44年9月から海軍施設部によって天理市柳本町などで始められました。主滑走路はほぼ南北で長さ1500㍍、幅100㍍あったといいます。予科練生が練習機で訓練する場となり、45年の3月には大和海軍航空隊として独立したとされます。


(写真提供 高野眞幸さん)
45年5月に海軍軍令部次長に「特攻生みの親」と言われる徹底抗戦派の人物が就任し、特攻を柱に本土決戦を進める方針を掲げていました。翌6月、柳本飛行場に茨城県から零戦部隊が到着・布陣したとされます。本土決戦になれば陸海両軍統率者の大元帥(だいげんすい)、天皇が10日程度、柳本飛行場近くの地下壕に設置された御座所で特攻機の兵士を激励する手はずだったといいます。
太平洋戦争末期の45年6月、陸軍は大阪府との府県境の香芝市穴虫にある屯鶴峯を掘削して屯鶴峯地下壕を設ける工事に着手しました。同年秋に予想される米軍の九州上陸に備えて陸軍が組織した航空総軍の戦闘指令所として利用される予定だったと考えられています。戦闘指令所と大阪府八尾市の大正飛行場を電話線で結び、特攻機などの飛行を指示することになっていたといいます。
地下壕は西壕と東壕に分かれ、それぞれ構造はあみだ状で、幅約5㍍、高さ約3㍍で掘削され、延長は約1㌔です。地元のNPO法人が2021年の調査で、西壕近くの傾斜地の3カ所で建物跡を発見し、出土したタイルや小便器などから建物は陸軍幹部の皇族用や航空総軍司令官用ではないかと推測しています。


45年8月、米軍による広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦などで日本は連合国側のポツダム宣言を受諾し、15日に無条件降伏しました。本土決戦は回避され、柳本飛行場と屯鶴峯地下壕は軍事活用されることなく終戦となりました。
戦争の実態を知り、平和について考える素材として柳本飛行場跡にある防空壕跡や屯鶴峯地下壕は必要な整備をした上で戦争遺産として末永く保存されることが望まれます。
以上で奈良の太平洋戦争に関する講演を終わります。
お断わり:
①当日の講演内容について一部で短縮または補充しています。
②取り上げた戦争当時の市町村名については、原則として現在の市町村名で表記しています。
