第1回「會津八一と奈良」勉強会報告

10月29日、南都銀行西大寺銀行クラブ

今回の勉強会は、奈良大学名誉教授の浅田隆先生により「會津八一と奈良」と題し、奈良を愛した歌人でもあり、書家でもあり、美術史家でもあった會津八一さんの奈良とのかかわりや奈良の歌について、3回にわたり深く掘り下げてお話いただく予定となっている。第1回目の今回のテーマは「奈良への初旅」であった。
會津八一は、8月1日生まれなので八一と名づけられたことや、旧制中学卒業前後頃より、地方新聞に俳壇、俳話を連載するなど早熟であったことや、正岡子規、坪内逍遥との関係よりも、やはり気になるのは、早稲田大学在学中より恋仲であったといわれ、当時東京女子美術学校の学生であり、美人画家ともいわれた「渡辺文子」とのことだろう。
知り合うきっかけになったのは、従姉妹と妹が東京女子美術学校に入学したことと、彼女らの友人に渡辺文子がいたのである。

渡辺文子氏

八一の大学時代の友人で大阪に在住していた伊達俊光に送った手紙が残っており、明治40年12月の手紙によれば、明春3、4月に文子も加わり、奈良を訪問すると記載されていたが、明治41年3月の手紙によれば、「ひとりで行く。ひとりということにつきて何事も問うことなかれ。僕また何事も語ることなかるべし。」と書かれており、この頃破局を迎えていたようである。友人への手紙が残され、後世の人に読まれるなんて、八一も考えていなかったでしょうね。
八一の奈良への初旅は、明治41年8月で東大寺、春日大社、若草山、興福寺、秋篠寺、法隆寺等々を精力的にめぐり、「西遊咏草」という歌集に20首を収録した。(本書は現物は焼失したが、原稿等により復元された。)初旅では八一は奈良では「対山楼」に宿泊したが、以後、「日吉館」を定宿とした。
奈良へ来た頃の彼の失恋の痛手は大きく、「西遊咏草」の猿沢池での次の歌にも、その気持ちが感じ取れる。(現在、猿沢池のほとりに歌碑が立てられている。)
「我妹子が 衣かけ 柳 みまくほり いけをめぐりぬ 傘さしながら」

猿沢池のほとりの歌碑

また、彼には「古代思慕」という気持ちが強く、聖徳太子の弓を詠んだ次の歌に、それが強く感じ取ることができる。この歌は、浅田先生おすすめの歌でもあった。
「みとらしの梓の真弓 つるはけて ひきてかへらぬ 古 あわれ」
「西遊咏草」の歌を説明していただいている間に時間切れとなり、非常に残念であったが、次回の勉強会が本当に楽しみとなった。

岸 克行、 大山 恵功 記