神武天皇東征の足跡
来年は古事記が編纂されて1300年の記念すべき年に当たります。
奈良県では昨年「記紀万葉プロジェクト」なるものを発表し、ポスト1300年事業として県全域を大いに盛り上げようと準備しています。
今回はこれに関連して神武天皇東征の足跡にかかわる「聖跡」を紹介します。
古事記では神武天皇の誕生から大和での即位までを克明に記述しています。
古事記はその大半が神話の物語だとかたずけてしまう人もいますが(実は私もそうでした)少しこれを読み解いていくと日本最古の史書であり、天地開闢から始まり天孫降臨以降万世一系の天皇の系譜が記され、日本の歴史を紐解くうえで無くてはならない知識を教えてくれます。
神武天皇の東征は物語として広く知られていますが、神武天皇の実在を否定する説も多くあります。
実在が確かな最初の天皇は第10代崇神天皇とされていますが、実在を立証する物証はありません。
したがって、このことはあまり深く考えずに古事記の記述に従って手短に東征の足跡をたどってみます。
神武天皇は日本最初の天皇ですが、そのルーツはいわゆる天孫降臨に発します。
葦原の国が平定され高天原から瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高千穂峰(九州の日向)に降り立ちます。
この瓊瓊杵尊の子が物語で有名な海幸彦、山幸彦で、山幸彦の孫にあたるのが神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト・神武天皇)で4兄弟の末子でした。
天孫降臨以降「神の代」が3代続き(日向3代という)初めて人間としてのカムヤマトイワレビコ即ち神武天皇が誕生したのです。
カムヤマトイワレビコは天下を治めるために、本拠地を大和に移そうと考え兄弟で東に行くことを決め日向を出発します。
ここからが東征の始まりです。イワレビコの一行は筑紫の宇佐の宮から岡田の宮などを経て吉備の高島の宮にたどり着き、この地で8年間留まり大和入りの準備をしました。
その後一行は大阪湾沿岸の白肩津(東大阪市生駒山の麓)に上陸し、ここから生駒山を越えて大和に入ろうとしましたが、ここで画期を迎えます。
これまで全戦全勝であったものが大和の土豪「長髄彦(ナガスネヒコ)」の抵抗にあい始めて大敗を期しました。
日本書紀の記述を引用しますと「紀元前660年に日向を発した皇軍は大和に入るためイコマ山を越えようとしたが長髄彦と孔舎衙坂(クサエザカ)で激しく戦い、前に進めず草香津に引き返し盾を立て並べ雄叫びし、ここを盾津とした」としています。