葛城王朝について
前回に続いて古事記・日本書紀の2回目です
舞台は奈良盆地西南の葛城金剛山麓で、古代にこの葛城地方一帯に繰り広げられたであろう日本最初の王朝・葛城王朝について考えてみたいと思います。
この葛城王朝(おそらく3Cの後半まで)は大和王権の発祥の地とされている奈良盆地東南の三輪山麓にあった三輪王朝(4C初頭に成立か?)より以前に成立したというある種フィクションであるかもしれませんが、何らかの意図があってその時代の天皇の系譜が記紀に記されているわけですからそのロマンを追ってみたいと思います。
記紀では神武天皇崩御の後、第2代綏靖天皇以下第9代の開花天皇までの事績についてあまり詳しく記されていません。したがってこの8人の天皇の実在を怪しむ意見が多く、この間を「欠史8代」とする考え方が有力です。特に戦前の皇国史観への反動からか、第10代の崇神天皇から或いは第15代応神天皇からが実在が確かであるとする意見が多数を占めています。また昭和57年に発行された高校生向けの日本史教科書でも初代天皇は応神天皇としています。
しかしながら単純に考えても崇神天皇や応神天皇は突然現れたのではなく、欠史8代の最後の天皇である開化天皇の息子が崇神天皇であることから、開化天皇は実在しなければつじつまが合いません。
記紀では天皇の系譜を初代神武天皇から途切れることなくたどっていますので8人の天皇が居なかったとすれば現在の平成天皇は125代ではなく116代となり天皇の代位を変えなければなりません。
このことはさておきこの8代の天皇の実在の可能性を追うことにより葛城王朝の実在に迫りたいと思います。
天皇の伝承地
まずこれらの天皇の皇居伝承地と陵墓は次の通りです
天皇名 | 皇居(宮殿) | 所在地 | 陵墓 | 所在地 | |
2代 | 綏靖天皇 | 葛城高岡宮 | 御所市 | 倭桃花鳥田上陵 | 橿原市 |
3代 | 安寧天皇 | 片塩浮孔宮 | 高田市 | 畝傍山南御陰井上陵 | 橿原市 |
4代 | イ徳天皇 | 軽曲狭宮 | 橿原市 | 畝傍山南繊沙上陵 | 橿原市 |
5代 | 孝昭天皇 | 腋上池心宮 | 御所市 | 腋上博多山上陵 | 御所市 |
6代 | 孝安天皇 | 室秋津島宮 | 御所市 | 玉手山上陵 | 御所市 |
7代 | 孝霊天皇 | 黒田蘆戸宮 | 田原本町 | 片丘上馬坂陵 | 高田市 |
8代 | 孝元天皇 | 軽境原宮 | 橿原市 | 剣池嶋上陵 | 橿原市 |
9代 | 開化天皇 | 春日率川宮 | 奈良市 | 春日率川坂本陵 | 奈良市 |
各天皇の皇居跡は今も伝承地として残り、各天皇の陵墓もあるわけです。ということはそこには伝承の根拠となるものがあり、天皇の実在をうかがわせるものと考えます。
上の表からもわかるとおりこれらの天皇の皇居の伝承地と陵墓がこの葛城周辺に集中して残っているのは単なる偶然ではないと思われます。
高岡の宮は御所市森脇(一言主神社北)にあり、池心宮は御所市池内 室秋津島宮は御所市室でいずれも御所市内にその伝承地があり葛城山麓です。それ以外も御所市に隣接する大和高田市や橿原市に伝承地がある。なお一般的には葛城の地は金剛・葛城の山々の東麓地方で、現在の御所市、大和高田市、葛城市および橿原市の西部で奈良盆地の西南辺の南北17キロに及ぶ地域です。
直木幸次郎氏はその著「奈良」の<古墳と豪族・天皇家との婚姻伝説>の中で次のように述べています。
即ち、葛城の地方には元来事代主神の信仰が強く葛城の山並みはその神々の本居(うぶすな)として尊ばれ仰がれていた。このような信仰や伝承を通じてみても葛城の地方が他とは違った一つの地域をなしていたことが伺われる。
また、神武天皇の皇后の出自であるが、古事記では皇后のヒメタタライスケヨリヒメは三輪の大物主神の娘としているが、日本書紀では事代主神(大国主命の子)の娘のヒメタタライスズヒメとしている。すなわち神武の皇后の父は事代主神で葛城を本居としているから、古代の天皇家にとって葛城地方が重要な地域であったと思われる。また第2代綏靖天皇の皇后も事代主神の娘でイスズヨリヒメ。第3代安寧天皇の皇后は鴨王の娘でヌナソコナカツヒメ(鴨王は事代主神の息子で、葛城のもっとも古い豪族)でやはり事代主の系統である ただしこうした系譜が歴史的事実であるという確証はないともされています。
葛城王朝論
ここで宗教民俗学者で大阪教育大学教授であった「鳥越憲三郎博士」の葛城王朝実在論を取り上げます。
この葛城王朝実在論は昭和54年5月に朝日新聞社から発刊された「神々と天皇の間」(大和朝廷成立の前夜)で詳しく述べられています。
そのあらすじは、第10代崇神天皇に始まる大和朝廷つまり三輪王朝より前にこれに先行する王朝が葛城山と大和平野の西南部に存在したのではないかという仮説であります。
まず、古事記日本書紀という文献自体が、受け継がれた伝承を文献化したものと考えられるので、これを全くの作り話として抹殺することは科学に名を借りた独断であるとされています。
そこで伝承を活用して大和朝廷成立の前夜を解明しようとされました。
まず第一に、記紀での神武天皇と崇神天皇の二人の別名ハツクニシラススメラノミコト(初めて天下を治める天皇の意)の存在を認め大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定しました。
すなわち神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝に始祖とし三輪王朝に先行して葛城王朝が存在したとしました。
神武から開化に至る9代の天皇の皇居と陵墓は大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中していて、崇神に始まる大和朝廷初期(三輪王朝)の皇居と陵墓が平野の東南部にあったのとは対照的な関係を持つという。
当然これらの皇居や陵墓は実際の物という保証はないがその伝承記録は何らかの真実の根拠に拠ったものと考えるとされています。
次に葛城山麓には古い神社がずらりと並んでいる。
延喜式で格付けされる名神大社で勅使がお詣りになる最高位の神社が5社もある。
火雷神社、一言主神社、鴨都波神社、髙天彦神社、高鴨神社、大歳神社であり、これに匹敵する平野東南部では大神神社、穴師神社、大国魂神社、石上神社、の4社しかない。
葛城山麓と三輪山麓、大和の中で東と西に隔たった二つの山麓にだけ最高の社格を持った古い神社が集中している。この神社の配置から見ても東西二つの地域が古代の文化と政治の中心となっていたことが分かる。古代においては神社と部族の関係は密接であり、神々を中心として部族が構成されていた。したがって古い由緒ある神社の所はその神を奉斎していた部族の居住地であったと見てよいとされています。
以上が鳥越博士の葛城王朝実在論のあらすじです。氏の著書ではまだまだ書ききれない詳細な論旨がたくさんあります。
葛城の豪族
葛城地方の古代豪族は鴨氏と葛城氏それに尾張氏であるが葛城氏の後裔には巨勢氏や平群・蘇我氏などがあります。
鴨氏は葛城山麓の高天原に居たが弥生中期頃に平坦地に降りて水稲農耕を営み、田の神である事代主神を祀った。これが高鴨神社や鴨都波神社であり、一般的には鴨社と呼ぶ。ちなみに鴨族は神武天皇東征の案内をしたヤタガラス(鴨建津身命)の子孫であり、鴨王の系統が神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となりました。なお鴨都波神社を中心とした地域には弥生時代の大規模集落遺跡が広がっています。
葛城氏は金剛山の中腹が元の居住地で経済軍事力に優れ、頭角を現した集団が葛城族を名乗ったのではないかとされています。古墳時代以降葛城地方に本拠を置いていた有力な在地豪族で、葛城族の本家は葛城襲津彦です。襲津彦はまた武内宿禰の後裔であるともいわれ、4世紀には実在した人物で神宮皇后の将軍として新羅討伐に朝鮮半島へ派遣されたことが記録に残っています。
襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となり、履中、反正、允恭天皇を生みその後も皇室との婚姻関係を持つなど密接な関係にあったが、雄略天皇により滅ぼされたとされています。
なお襲津彦の墳墓は葛城地方最大の宮山古墳とされ、この古墳の北方にある秋津島遺跡からは2010年に古墳時代の祭祀の場とみられる施設跡が「囲型埴輪」と共に出土し葛城氏につながる施設とみられています。
司馬遼太郎氏は「街道を行く」の葛城道のなかで「この葛城山麓で古代に栄えた王朝ー葛城国家と言っていいーが、その後大和盆地で成立する天皇家より当然古いという印象は、あくまで印象だが、どの古代史家も否定できないであろう」と述べておられます。
葛城王朝実在の可能性について歴史家の主張を採り入れ考えてきましたが、要するに記紀の記述は全くの作り話ではなく古代からの伝承と何らかの事実を今の私たちに伝えようとして著したのではないでしょうか。
物的事実に乏しいものを否定するのは易しいが、これを事実として肯定するのは至って困難であるということです。ただ最近の考古発掘の成果はこの事実をゆっくりと補ってくれるように思えます。
先週 彼岸の中日にこの葛城山の麓に点在する史跡社寺を再びめぐりました。彼岸花が咲き乱れる中、今も古代とさほど変わらない姿の金剛葛城山を仰ぎ、広大な山すそを眺めますとここで栄えた古代葛城王朝の実在がなんとなく実感できました。
奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝