女たちが守る寺シリーズ(1)
友の会交流部会の奈良再発見サークルでは今回から「女たちが守る寺」シリーズとして、県下の寺を巡る企画を立てられているが、その第一回目としてこのほど11月15日に「奈良まちの中将姫ゆかりの徳融寺、誕生寺、高林寺と璉城寺を訪ねて」が実施された。
これに先立って11月5日には中田紀子氏による講演があったが、内容は当ブログで記したとおりである。
近鉄奈良駅に8時45分の集合で21人が集まった。
世話人の方々に出席をチェックしていただき資料を頂いた。次いでサークルリーダーの鈴木氏のあいさつとコースの説明があった。
定刻の9時に出発。餅飯殿商店街を通り奈良まちに向かう。
この奈良まちは元々元興寺の境内で地域には20か寺以上が点在し元興寺の子院であった寺も多い。
今日訪れる徳融寺や誕生寺、高林寺はこれまでも訪れたことはあるが、すべて本堂や仏堂に上がったことはなく、したがって本尊である中将姫などは拝観していない。
今回はそれが出来るとあって大変楽しみである。
中将姫伝説はこれまで幾度も読み聞きしていたが、そのすべてが中将姫に対する悲劇性や残虐性が強調されていた様に思う。
しかし今回の「再発見」を通じてそれがそのようなものでなく中将姫は阿弥陀如来を尊崇する敬虔な女性でしかもスーパーウーマンであったことが知らされ、改めて大きな知識の収穫となった。
ほどなく徳融寺に到着する
この寺は融通念仏宗で本尊は阿弥陀如来である。
今回は本堂や観音堂に上げていただきそれぞれ拝観できた。特に観音堂では左手に赤子を抱く子安観音がとてもお優しい姿で佇んであられた。
また当寺は藤原豊成卿の邸宅跡とされ、境内には藤原豊成卿と中将姫の供養塔である宝篋印塔が2基ある。
境内の外には墓地があり奈良の著名人の墓石が多くある。奈良出身の画家・絹谷家の墓石もあった。
徳融寺の筋向いが誕生寺である。
門をくぐるとこじんまりした境内の奥に本堂がある。
この寺は浄土宗の尼寺で、やはり豊成の邸宅跡であり、中将姫はここで誕生したとされている。
本堂には中将姫座像が祀られている。
やがて男性の?僧侶が来られ、寺の縁起を説明された後「中将姫涙和讃」の経文が配られ参拝者全員に唱和を促された。僧侶について読誦するのだが皆さん真剣に取り組まれていた。中身は中将姫の悲劇に始まり最後は29歳で大往生を遂げられたというものである。
そのあと境内を案内された。有名な中将姫の産湯に使ったという井戸があったが、外見はやや粗末なもので
期待していたのとは少し違った。
次いで高林寺に行く
融通念仏宗の尼寺である。ここも藤原豊成の屋敷跡で山門を入ると右手に豊成の古墳がある。
本堂に上がり静かに待っているとやがて尼僧がお出ましになる。
御年八十八歳の当寺九世・智成珠慶尼である。
膝が少しお悪い様であるがかくしゃくとした出で立ちは周囲を圧しその存在感は誠に大きなものである。
3歳から寺に入り長年修行を積まれただけあって柔和なお顔立ちの中に気品と威厳が満ちている。
失礼を顧みず撮影したため手が震えてしまった
やがて静かにお話になる。
お話は誠に興味深いものばかりであるのだが、聞く方に力が入り、走り書きのメモが帰って見ると判読不明なもの多く、ここに正確に伝えることが出来るか自信がない。(どなたか誤りがあれば正していただければありがたい)
まず最初に時の右大臣藤原豊成郷は藤原南家で今もその係累は脈々と続き直系の末裔は現在東京女子医大の学長高倉公友氏であることを紹介された。
これまで藤原南家は仲麻呂の乱以降途絶えてしまったように思っていたが、そうではなかったのだ。
次にこの地が藤原豊成の邸宅跡であることに関して。
昭和30年代初めに、年配の方ならご存知の池田弥三郎慶応大学教授がお見えになり、この地に川が流れており遠くに二上山が見えるかと尋ねられたという。
池田弥三郎教授は折口信夫博士に師事し「死者の書」の解説書を著されたのであるが、その中に豊成の邸宅には川が流れ二上山が望まれたというのである。「死者の書」は中将姫を主人公に藤原南家の郎女を巡る物語である。
珠慶尼は確かにこの地の北には鳴川があり、建物のなかった大昔は二上山も望めたと説明されたところやはり豊成の屋敷跡に違いないということであった。
この寺には藤原豊成卿・中将姫父子対面絵図が伝わり、そこには遠くに二上山らしきものも描かれている。
次に中将姫の話であるが、結論から言うと中将姫は説話のような悲劇の主人公ではなく、29才で4メートル四方の蓮糸曼荼羅を作り上げるという大事業を成し遂げたスーパースターのような女性で光明皇后に次ぐ女性でもあったともいわれた。
ここで珠慶尼のお話について奈良まち在住の作家増尾正子氏が珠慶尼に会って聞かれた話を自著の「奈良の昔話」に記されているので要約を紹介する。
<高林寺の前住職稲葉珠慶さんは中将姫の話をされるたびに、「中将姫の悲劇のお話は信仰説話という成り立ち上、苦労が多ければ多いほど後の霊験が輝きを増すという話の性格上、付け加えられたのだと思います。中将姫は幼少のころお母様を亡くされたので信仰心が篤かったのは当然ですが、右大臣藤原南家のお姫様ですし、継母と言っても南家の奥方ですから折檻などはしたないことはなさらないと思います。」とおっしゃいます。いじめというのは心の中の葛藤を後世の作家たちが形に現して分かりやすくしたのだと思う>とされていて、私たちも今回同じようなことを伺った。
また蓮糸曼荼羅の話では、一般的には蓮糸のような弱い糸で曼荼羅など織れるわけがないと思われがちで普通は絹糸で織られるとされているが、決してそうではなく蓮糸を撚り合わせるとかなりの強さになるということを説明され見本を示された。また、ミヤンマーのインレイ湖畔で取れる蓮の糸は強く僧侶の袈裟やマフラーにも使われているとされマフラーの実物を見せていただいた。
話は尽きることがないように思えたが、切りの良いところで終わられた。
一同心から感謝した。帰りに珠慶尼の著書「高坊高林寺」を求めた。長くなるので割愛するがその中ほどには珠慶尼の中将姫への思いが綴られている。
この後一行は璉城寺へ向かった。
ここでは有名な裸形の阿弥陀如来立像を特別に拝観させていただいた。両脇の観音・勢至両菩薩も均整のとれた美しい仏様であった。
ここで今日の予定は終わった。ちょうど予定通り12時半であった。
奈良まちという狭い地域での見学会であったが、内容は非常に濃く目からうろこのたとえ通り、正に再発見にふさわしいツアーであった。
最後に交流部会長の東條さんをはじめ、今回の企画をされた鈴木リーダー、また下見からいろいろお世話してくださった役員の方々に厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。
次回の奥山巡りも大いに期待しています。よろしくお願い致します。
奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝