矢田丘陵にニギハヤヒの足跡をたどる
前日の午後6時台の奈良北部の天気予報は「午前中は50%の降水確率」。本来なら中止であるが、東西に高気圧が張り出してきており小雨程度と予想されることと舗装路が主であることから「決行」することに方針を変更、参加者に電話やメールで「決行」の連絡。
このところの寒さで梅の開花は期待できずあいにくの雨模様にもかかわらず、2月25日(土)午前8時30分富雄駅に参加者申し込みの22名全員が集合、終日傘をさしての散策となった。
今回は、神武天皇の東征に先だち天つ神を証明する神宝をもって、天磐船に乗って河内河上の哮峯(いかるがのみね)に天降り、その後大和の国は鳥見の白庭山にうつり地元の大王・長髄彦の妹を娶って神武天皇に統治権を禅譲したとされる物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の足跡をたどる企画。
記紀編纂1300年にあたる今年、悠久の歴史に関心が向けられているのか多くの方に参加をいただいた。
東大阪市の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の祭神はニギハヤヒと御子ウマシマデであり、生駒山はニギハヤヒと深く結びついた信仰の対象となる山である。
特に生駒山の東側の矢田丘陵と富雄川沿いにはニギハヤヒと長髄彦にまつわる伝承地や神社が数多く残されており、ニギハヤヒとその妻ミカシキヤヒメを祀る矢田坐久志玉比古神社は今回の探訪の中心である。
途中の見学地と時間が限られるため事務局で詳細な資料を用意、「三本の矢落下地点を結ぶ直線(南北線から30度の傾き)にニギハヤヒや物部氏ゆかりの神社が並んでいる」ことなどを出発前に紹介し見学の一助にしていただいた。
富雄駅から富雄川右岸(西)の道路を南下。富雄川堤に営巣するカワセミもあいにく橋の下にでも雨宿りしているのか、その「飛翔する翡翠」といわれる姿を見ることができなかったが、事務局のKさんのご主人が日参して撮影された写真が回付され、十分にその美しい姿を想像することができた。
三碓三丁目の添御縣坐神社は本殿が西向きの珍しい配置で三棟が一体につながる形式の重文建築であるが、説明だけで見学は割愛。
インドバラモン僧菩提僊那が命名し落慶したという霊山寺門前の赤い大鳥居を右にみて大日寺の前の坂道を登る。
由緒不明の立派な五輪塔と千体地蔵に感心していると第2阪奈道路をまたぐ高架橋にさしかかる。
この幹線道路をはさむ南北の地区が法に基づき「急傾斜地崩壊危険地区」に指定されているとのこと。30度以上の勾配の土地が急傾斜地に指定され崩壊防止工事が実施されている。
追分梅林で昨年から進められている工事を目の当たりにし、3・11で思い知らされたもしもの時に備えたインフラ整備の重要性を再認識する。
追分の美しい大和棟の旧本陣・「村井邸」の前の国道308号である狭小な古道「暗越奈良街道」を西へ進み、追分神社を過ぎたところで南に折れる。
このあたりはのびやかな雑木林が残されており冬枯れの景色がなんとも言えず美しい。「子どもの森」に至るまでに古色をおびた道標があり、そばに新しい「伊勢本街道」の表示が見られる。暗峠を越えて奈良に入り、最短の道筋で天理にはいるにはこの道が最適なのだろう。
暗峠と奈良東南部を結ぶ伊勢本街道の意外な道筋が見えてくる。やはり何事も歩いて確かめねばならないと実感させられる。
「子どもの森」の休憩所を出て雑木林を東へ進み山道を少し下ると「滝廃寺磨崖仏」のあるお堂が忽然と現れる。この地点は、近畿で最大の円墳であり、素晴らしい副葬品が明治に入っての盗掘で出回ったことで知られる富雄丸山古墳の真西に位置する。
この立地にも何かいわくがありそうである。磨崖仏は花崗片麻岩という硬い岩に方形の窪みがいくつか彫られた中に浮彫りにされており、曼荼羅のような構図をもつ奈良時代の作という。
数人で照明をあてたが剥落が激しく、ほとんど仏像の姿を判別することはできない。磨崖仏の前には江戸期の作かと思われる愛くるしい表情の大ぶりな石仏千手観音が祀られている。
その足許に供えられた水仙の黄色が暗い堂内でひときわ鮮やかである。
磨崖仏は自然石に還りつつあるが地元の人々にとっては今も篤い信仰の対象としてお守りされているのであろう。
ここから落ち葉を踏みしめて来た道を引き返し舗装路に出て南下すると急に展望がひらけ遠くに三輪山が望まれる。
ニギハヤヒが天磐船から宮居のために射た三本の矢が落ちた地の一つ「三ノ矢塚」である。
大和郡山市はこの地を「ヤマタイ国本拠伝承地」として発信している。ここから「ニノ矢塚」のある「矢田坐久志玉比古神社(矢落社)」を経て「一ノ矢塚」を結ぶ線を地図上で南北に延長すると物部氏ゆかりの等彌神社に収束すると思われるが、櫻井市の鳥見山方面を遠望して実見する。
確かにここは両側を丘陵に挟まれて南に広々とした空間が広がる豊かな雰囲気を醸す場所で、風水にも適っていそうである。
「矢田坐久志玉比古神社」では石鳥居に長大な勧請縄が掛けられている。
一説によれば蛇神信仰と関係があるとも言われているが、縄は鳥居の両側に延々と伸びており向かって左側(北)は尾にあたるのか柱にグルグル巻きにされている。奈良県立民俗博物館で鹿谷勲学芸課長が待っていただいているので11時半には民家園に入らねばならない。「一ノ矢塚」の見学を断念し先を急ぐ。
「奈良県立民俗公園」内の重文民家旧臼井家(高取町から移設)では、おくどさんから登るかぐわしい香りにつつまれて鹿谷勲学芸課長から「民家保存の課題」についてのお話を拝聴する。
その主旨は、[建築学的な保存は建設当初の姿に復元して保存する。臼井家も高取町で使われている時は、日本で一番美しいといわれる民家様式の大和棟であったが、解体する過程で茅葺きであることが分かり現状の形で保存されることになった。
美しい大和棟は、家が豊かになるにつれて手を加えられて仕上がってきた姿であるので民家園では大和棟は一棟もない。建築学的保存だけでは、その家で暮らした家族の生活の匂いや記憶が残せない。生活の変化に伴い急速に失われていく家の記憶を残していく民俗学的な保存が今後の課題]というものであった。
長年、大和で綿々と伝えられてきたハレとケの暮らしに暖かい眼を向けられてきた鹿谷課長の言葉には民俗研究者としての熱い思いが溢れ出でており、古いものを保存する基本的な問題を深く考える機会となった。
「かつてお弁当は家で作り外で食べるものであったが、今や外で買って家で食べるものに変わった」という秀逸なたとえには身につまされた。
臼井家のひな飾りのある座敷をお借りしてお昼をとったのち館内見学に移る。
「除草剤の普及で一家に複数所有されていた手押し式草抜き器が大量に博物館に集まった、稲作にとって水は死活を制するもので、奈良では足踏み水車は切実な道具であった」など見過ごされそうな常設展示品の背景について、横山主任学芸員から懇切丁寧なご説明をいただけたのはありがたかった。
特別展「大和の雛まつり」では、「享保雛などの古い形の女雛は冠をつけている、戦前まで関西では御殿形式の飾り付けが主流であった」ことなども教えていただいた。
館内見学を終えてここで一旦は解散する。
奈良高専前からバスの乗り近鉄郡山駅に出る。ちょうど大和郡山市内中心部では、「大和な雛まつり」と銘打って名店の雛飾り巡る市内周回型の催しが展開されているという。
ミシュラン一つ星の料理旅館「尾川」の雛まつりの見学がSさんから提案され21名が参加。道路中央に水路がある紺屋町を通り「箱本」の歴史を偲んで歩を進めていると、大和郡山ボランティアガイドから声が掛かり「折り紙雛」をいただく。
雑穀町の「尾川」は大勢の見学者が溢れていたが、参加者全員がお薄とお茶菓子の無料接待にあずかった。
雨にも負けず・寒さに負けず・・・元気な仲間
今や新郊住宅地と化した矢田丘陵・富雄谷にヤマト朝廷建国期を遡る歴史の伝承地を訪ねさまざまな意外性に遭遇、おおいに刺激を受けた一日であった。(藤村記)