奈良県における「神武東征とその聖蹟」
古事記完成1300年の記念すべき年に、私たち有志は昨年の夏から古事記の読み下し文を輪読することで、古事記に少しばかり触れました。さらに今年になってから多くの有志で書紀における神武記をわずかながら学びました。しかし机上での学びだけでは物足りず、せめて神武東征の聖蹟を訪ねてみようと、それも奈良県と大阪府東大阪市に点在する聖蹟顕彰碑を訪ねることとしました。
もちろん記紀ゆかりの史跡は奈良県には数えきれないくらいあります。それらは機会あるごとに訪ねた方も多いと思いますが、この神武東征の聖蹟は意外と知られていないようです。今回これ等を訪ねることにより記紀に対しての新たな造詣が深まるのではないかと思います。
これから聖蹟を訪ねる方々に参考となる聖蹟の写真と周辺の関連情報をを提供します。とくに聖蹟碑の裏面に刻まれた考証文に注目していただきたいと思います。
なお、これらの聖蹟碑は神武天皇東征の聖蹟を顕彰するため紀元2600年(1940年、昭和15年)の奉祝の事業の一環として顕彰碑が建てられました。これは文部省における神武天皇聖跡調査委員会による推考に基づいて、大分県から奈良県に至る7府県に計19か所が選定されました。そのうち奈良県には7か所の聖蹟があります。
神武天皇戌午年頭八咫烏郷導(ヤタノカラスクニノミチビキ)ニ依リ道臣命ヲ皇軍ノ将トシテ菟田穿邑ニ至リ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地方ナルヘシ
大伴氏の遠祖日臣命は功あり勅して名を道臣命と改める
天皇 兄猾及び弟猾を徴さしむ 時に兄猾来ず 弟猾即ち詣至り 弟の密告により兄は殺される 流れる血は累々しくその地を名づけて「血原」という
宇賀神社から2キロほど山道を行くと中将姫伝説の日張山青蓮寺がある
県道から急坂を300mほど登ったところに聖蹟碑がある
神武天皇戌午九月菟田高倉山ノ嶺ニ登リ給ヒテ域ノ虜軍ノ形勢ヲ謄望シ給ヘリ 聖蹟ハ此ノ地ナリト傳ヘラレル
高倉山から国中を望むと 国見丘の上に八十梟師 磐余邑に兄磯城の軍があふれていた
敵を降伏させるために、天皇は「天の香具山の社の中の土を取って平瓦と御神酒を入れる瓶を作って天神地祇をお祀りせよ」と天神のお告げの夢を見た
神武天皇戌午年九月天下平定ノ為平瓫及厳瓮ヲ造リ給ヒ丹生川上ニ渉リテ天神地祇ヲ祭ラセラレ又丹生川に厳瓮ヲ沈メテ祈リ給ヘリ 聖蹟ハ此ノ付近ナリ
天皇曰く「吾今まさに厳瓮を以って丹生川に沈めむ。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、例えば槙の葉の浮き流れるようであれば、吾必ず能く此の国を平定するだろう。」そして瓮を川に沈めた。しばらくすると魚は皆な浮き上がった。
ちなみに浮き出た魚は魚編に占うと書く「鮎」である
祭神は罔象女神(ミツハノメ)
東吉野村は天誅組終焉の地で義士の墓が点在する 来年は天誅組義挙の150年にあたる
神武天皇戌午年十一月兄磯城ヲ討チ給ヒ皇軍ノ虜ヲ破ルヤ大軍集マリテ磐余邑ニ充満セリ聖蹟ハ此ノ地方ナリト推セラル
神武天皇御東征の鴻業ヲ遂ゲサセ給ヒ橿原宮ニ御即位後四年二月鳥見山中ニ霊畤ヲ立テテ皇祖天神ヲ祭ラセラレ大孝ヲ由ベ給ヘリ聖蹟ハ此の地付近ト伝エラレル
神武天皇戌午年十二月皇軍ヲ率イテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシニ因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑トセリ聖蹟ハ此ノ地方ナルヘシ
皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて勝つこと能はず。金色の霊しき鵄有て、飛び来りて皇弓のはずに止まれり。
長髄彦が軍卒皆迷ひ眩えて戦はず。長髄は是邑の本の號なり
神武天皇伊須気余理比賣命ノ御家アリシ狭井河之上ニ行幸アラセラレタリ聖蹟ハ此ノ地付近ナリト推セラレル
天皇は富登多々良伊須須岐比賣命を皇后とした後、狭井河の上にある伊須気余理比賣の許に幸行でまして一宿御寝しましき、然して生まれしし御子の名は神沼河耳命即ち綏靖天皇
以上奈良県における7か所の聖蹟顕彰碑を紹介しました
奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝