「文学の小窓からの風景 第5回目(最終回)―坪内逍遥『役の行者』」 講演会感想記

10/5(土)実施・・・参加者54名   「三和大宮ビル 6階会議室」

今年2月に始まった「文学の小窓からの風景」講演会も、この日で最終回となりました。

全5回ご講義の浅田隆先生
10/5最終回の講演の演目

まず、司会の小林誠一さんが、この日に備えて坪内逍遥著『役の行者』を読もうと本を探したけれど見つからず、その代りに大峰山寺を訪ねたというご自身のエピソードに続いて浅田先生を紹介しました。

本日の司会の小林誠一 さん

浅田先生は紹介を踏まえて、『役の行者』は現在手に入りにくい状況であること、この作品については最後に触れることとして、本日は「役の行者」伝承を中心にお話しするとして、講演は始まりました。

【役の行者信仰の生成】
奈良は、歴史が古く人間の営みが長いため説話や伝承が最も多い場所のひとつだが、その中でも全国で通用するのは役の行者に関するもので、各地に伝承が残っている。富士登山の最も古い記録も役の行者の伝承である。
伝承が発生した背景の一つとして山岳信仰があげられる。古代人の理解としては、山は太陽が生まれるところであり、また、水が湧き、猛獣など恐ろしいものがたくさんいるところとして信仰の対象であった。山の神霊と心を通わせるシャーマニズムが起こり、山岳の霊力を身に着けようとする行者・山伏が現れた。
山岳信仰から発生した修験道は、奈良時代以降、神仏習合により大日如来を本仏とし、平安時代になると、同じく大日如来を本尊とする密教と結びついた。比叡山延暦寺は平安京の鬼門の方角に建てられ、鎮護国家の寺とされたため、天台宗の修行の場である熊野には皇族や貴族が盛んに詣で、「蟻の熊野詣」と言われるほどの盛況となった。そして、その熊野と真言宗系の吉野山を結ぶ行場を開いたのは役の行者であると言われるようになった。

【信仰説話の生成】
続日本紀(796年選上)や、日本霊異記(822年成立、787年とも)に記載されていることで、役の行者はその活躍時期から100年後には伝説の人となっていたことがわかる。その後も多くの書物に記載され、時代を経るにしたがって内容も豊富になっていった。
信仰説話の生成は、修験道の唱導師による。唱導師は自己の信仰に信者を引き入れるために、聴衆の反応をうかがいつつ臨機応変に霊験譚を組み立てていく。長く伝承した説話は、時代を超えて人々に支持されていることを意味し、また繰り返されるたびに聴衆の願望・祈願・悲願を吸収し肥大していった。

10/5(土)の浅田隆先生の講演風景

【役の行者故地】
・吉祥草寺(御所市) 役の行者出生地、産湯の井戸がある。
・鬼取町(生駒市)  役の行者が二鬼を捕えた。
・滋光寺(東大阪市髪切(こうぎり)集落) 前鬼・後鬼の頭髪を埋めた。
・千光寺(平群町)  役の行者が大峰山を開く前に修行をした。元山上と呼ばれる。
・前鬼村(下北山村) 前鬼・後鬼の子孫が宿坊を営む。

【近代文学作品】
坪内逍遥は評論『小説神髄』で小説の改良を提唱、自身でも『当世書生気質』などの作品を発表した。『役の行者』は戯曲で、説話では一方しか出てこない一言主と廣足がともに登場することが特徴。
他の近代文学では、黒岩重吾『役小角仙道剣』がおもしろい。
最後に、奈良まほろばソムリエの会鈴木英一理事から、浅田先生には会の自主勉強会で引き続き「会津八一と奈良」と題してご講義をしていただくことが紹介されました(詳細は、本ホームページ「お知らせ(会員向け)」をご覧ください)。
浅田先生、長い間ありがとうございました。これからも引き続きよろしくお願いします。

講演に対する感謝の花束贈呈

文:交流G史跡等探訪サークル 吉田英弘   写真:同 森原嘉一郎