勉強会「記紀を愉しむ」第3回、第4回参加報告
7月から続けてきた木村三彦さんによる勉強会も「第3回「蘇我氏と物部氏の争い」、第4回(最終回)「平群氏の没落」を迎え、盛況のうちに終了した。
木村三彦先生、ありがとうございました。
第3回「蘇我氏と物部氏の争い」
日時:9月18日18時30分
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
・仏教伝来552年と585年の2つ
日本書記には、欽明天皇13年に百済の聖明王より、金銅の仏像や経論が奉られたとされている。その仏教の教えの良さに感銘しながらも、天皇は自ら決定を下すことなく、臣下と協議した。蘇我大臣稲目は、中国朝鮮半島の西となりの諸国が仏教を取り入れているのに、我々だけは反対するのかと意見し、物部大連尾輿・中臣連鎌子は、今さら新しい神を拝むと、いままでの神の怒りをかうだろうと反対した。
天皇の決断は、蘇我稲目に、試に仏をまつらせるということであった。結果、国内に疫病が発生し、多くの死者がでた。
物部、中臣連合は反撃にでて、仏教の排斥を願い出て認められたのち、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流した。
敏達天皇紀14年にも同様の話がある。登場人物が、蘇我氏では、蘇我馬子。物部氏では物部守屋。中臣氏は中臣勝海。
・物部掃討戦
587年、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼす計画を実行に移した。多くの皇子たちを引き連れて志紀群(河内)より物部の本拠地、渋川へと進軍した。皇子たちは、弱兵揃いであるから、兵力より人質としての起用であろう。
さすがに軍事を司っていた物部氏だけに抵抗が強かったが、厩戸皇子の誓いから守屋が射抜かれて、物部は滅んだ。この厩戸皇子誓いは勝利なれば寺院を建立するというもので、それが四天王寺である。
掃討戦の最後を飾るのは、守屋の資人捕鳥部萬(よろず)。軍事氏族のなかでも武勇の誉れ高き萬だけに抵抗すさまじく、最後に死闘を繰り広げたがついに滅んだ。
萬には、飼い犬が萬亡き後、傍らで飢え死んだというエピソードがある。萬の墓大山大塚古墳の約200メートル北に義犬塚古墳がある。
・八尾市の地図を見ながら、物部ゆかりの地名を解説いただいた。
・偽書 先代旧事本紀 天下ってきたのは、天皇家以外では物部氏のみと記されているが、偽書であるらしい。偽書ではあるが、偽書を生んだ背景なんかを推察すると興味が湧いてくる。
第4回「平群氏の没落」
日時:9月25日18時30分
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
いつものように、木村先生が一番乗りで到着された。世話人としても気が抜けない。準備の傍ら、いろいろ木村先生からお話をお聞きできるのも楽しみである。
・平群氏の出自
出自は『古事記』の「孝元記」によれば、武内宿禰の子「平群都久(づく)宿禰」(『書紀』では平群木兔宿禰)。武内宿禰の8人の子孫のうち、特に後世権勢を誇ったのは葛城氏・平群氏・蘇我氏である。なんと、平群氏は蘇我氏と並ぶ大豪族として記されている。
・全盛期
『日本書紀』などの古文献では、応神朝の頃から軍事氏族として活躍するようになり、履中朝には平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになったとされている。雄略朝に葛城氏が没落すると、木菟の子の真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めた。
・没落のきっかけ
平群真鳥(まとり)が皇位をも狙わんと専横を極めていたとき、小泊瀬稚鶺鴒皇子(オハツセ皇子後の武烈天皇)が物部アラカビの娘カゲヒメを求めたところ、先に平群真鳥の子・鮪(シビ)に取られてしまうことになる。皇子は大伴金村と謀りシビを殺す。真鳥(まとり)をも誅殺したのち、大伴金村は勢力を拡大するとともに、武烈天皇が即位することとなった。
・没落以降
その後、平群氏が歴史に登場するのは、物部掃討軍に参画した平群神手。
また、日本書記編纂にも携わっている。
・果たして史実かどうか
平群谷で確認される古墳はいずれも古墳時代後期6世紀のものばかりで、真鳥(まとり)やそれ以前時代の古墳は存在しない。従って、新興勢力平群氏が自らの地位を大きく見せるために史実を改竄したものであるといわれている。
・平群古墳群について
平群の古墳群めぐりは、竜田川の右岸・左岸に分かれており、平群谷を登ったり下りたり大変な行程である。また、道も細く自動車でめぐるのにも適さない。(私は自転車が最適と思い、後日古墳めぐりを行った)
【三里古墳】
この古墳の特徴は横穴内部にある石棚。石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多くこの地域と紀氏との関係も考えられている。奈良県下では石棚のある古墳は三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基は吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。出土遺物より6世紀後半~末頃の築造と考えられている。
現在は写真のように土砂で埋まっている。
【鳥土塚古墳】
平群地方最大の古墳。いずれも6世紀後半に作られとされている。
岸 克行 記