記紀万葉サークル10月11日例会「富雄川流域を行く」
参加者16名
富雄川は、生駒市北部に発し奈良市西部、大和郡山市中央部を貫いて斑鳩町で大和川に合流する。奈良盆地有数の河川である。その川沿いを幹線道路が走り大型の商業施設が点在する現在の風景の中では、古代の早い時期この一帯に存在していた勢力について思いを及ぼすことは難しい。
富雄丸山古墳・新木山古墳・小泉大塚古墳・六道山古墳などはこの流域の古墳として夫々に特徴があり、また結構知られているのであるが、この地域トータルとして検討されることは無いようである。しかし今回、流域を歩いてみてこのテーマに改めて魅力を感じたのであった。
前述の古墳の内、新木山古墳を除く富雄川右岸に存在する古墳はいずれも前期の古墳である。中でも小泉大塚は4世紀初めと際立って古い。小泉大塚古墳付近の丘陵、また富雄丸山古墳の対岸にある登彌神社辺りの丘陵からは弥生時代の遺物がかなり出土しているようだ。残念ながら早くから開発が進み、組織的な調査は置き去りにされてしまったようだ。しかしながら、一帯における勢力の継続性は窺えるのである。矢田丘陵を背にして東が開け、盆地有数の河川に沿った肥沃なこの地域に地縁的に結ばれた集団が存在しなかったとは思えない。彼等はどのような氏族を輩出したのだろうか。
登彌神社の祭神はお定まりの創造神らを除くと、本命は西本殿に祀られる饒速日命である。石切劔箭神社を筆頭に、生駒山の周りには饒速日命を祀る神社が当社を含めて6社ある。これらの神社が施設されたのはいずれ奈良時代前後とみて良いだろう。饒速日命はシンボルとして付与されたものであろうが、その対象となった集団がこの地域に存在したことを示唆しているように思われる。彼等は大和王権成立の過程において、当初は長髄彦(登美毘古)に表象されるような抵抗勢力だったかも知れない。「邪馬台国に比すべき王国が生駒山を中心として存在したのでは」という発想まで行き着く。
慈光院を鬼門筋に置き、小泉大塚古墳や六道山古墳を北方の守りとして近世片桐氏の小泉陣屋郭が成立した。東と南に面しては、遠見遮断のため何度も鍵折れする街道を配し町屋を密集させた。慈光院の向いから富雄川沿いに南へ続き、小泉橋の袂で直角に西に折れる奈良街道で、竜田越えと称するのはこの道である。因みに「奈良街道」は大阪側からの呼称、奈良から言えば「大坂街道」である。
背後の岡と街道に囲まれた内側は陣屋郭の内部に当るが、今は殆どその痕跡も無く、当時の遺構として残るのは2つの御庭池と小泉神社入口に移築された高麗門(大手門)位のものである。小泉神社は14世紀に当地の地侍小泉氏が設けた神社であるが、裏鬼門として陣屋郭に取り込まれた。
奈良を歩く行程にありがちな、古代と中世と近世が微妙に交錯する面白い地域であったと思う。
文と写真 田中昌弘(記紀万葉サークル)