忍性生誕800年 記念講演

平成28年7月16日、真言律宗般若寺住職・工藤良任師による講演会が、奈良市西大寺のサンワシティで行われた。主催は当会・保存継承グループ。
7月23日から奈良国立博物館にて開催される特別展「忍性―救済に捧げた生涯―」にさきがけての講演ということで、「忍性の生涯」をテーマにお話しいただいた。
忍性の奈良での活動の拠点といえば、般若寺。忍性菩薩顕彰に取り組んでいる当寺工藤師による講演ということもあり、50人の募集を大幅に超える60余人の聴講者で、当日は椅子を補充。満員の熱気に包まれながら、工藤師の穏やかな口調の講話が始まった。

講演会の様子

まずは、真言律宗についての、少々難解な仏教教義からの講義であった。
真言宗の僧が釈迦の戒律を重んじて修道生活をする「真言律」が、明治になって正式に宗派名となったのが「真言律宗」とのこと。なかでも叡尊師は菩薩行を基本とし戒律復興につとめ、鎌倉時代の西大寺を、唐招提寺や東大寺戒壇院などに次ぐ、律宗の代表寺院とした。
師の興正菩薩叡尊(大和郡山市白土出身)、弟子の忍性菩薩(三宅町屏風出身)、同じく弟子の慈真和尚(大和郡山市額安寺出身・後醍醐天皇の護持僧)が、「真言律宗の三祖」と称される。
しかし師叡尊は「慈悲の心が最も優れているのは忍性」と称賛したという。

真言律宗般若寺住職・工藤良任師

来年は興正菩薩叡尊の高弟・良観房忍性(1217-1303)が、健保5年(1217)7月16日に奈良県三宅町で誕生されてから800年という記念の年に当たる。(奇しくも当講演日は忍性のお誕生日!)
忍性は、母の逝去を機に額安寺に入って剃髪し、その後西大寺中興の祖・叡尊に師事し、奈良坂、般若寺近郊の北山宿(現北山十八間戸)などで文殊供養とハンセン氏病患者救済を実施した。

北山十八間戸(奈良市・国史跡)

建長4年(1252)、東国布教のために関東に下向。文永4年(1267)、北条重時の召請により鎌倉極楽寺に入り、真言律寺院として民衆救済活動の拠点に発展させた。嘉元元年(1303)同寺にて87歳で入滅。墓所は極楽寺の他、奈良県の額安寺と竹林寺に分葬されている。
日本初の仏教通史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』(1332年)におさめられた、忍性の慈悲を表す逸話の紹介では、「奈良坂に癩者たちがいた。手足がねじれており、町に物乞いに行こうにも歩くことができない。そこで西大寺にいた忍性が夜明け前に奈良坂に行き、癩者を背負って町に出、奈良坂北山宿で風呂に入れるなどの救済活動をして、西大寺に帰る。この施行を一日おきに数年間続けた(後略)」そうだ。
また、極楽寺では救済事業の諸施設の中に、「坂下馬病屋」という馬や牛の病院まで造った。文殊菩薩の化身と称される、忍性菩薩の慈悲の心は人間のみならず、牛馬にまで及んだという話に、聴講者たちはただ聞き入るばかりであった。

鎌倉極楽寺本堂
忍性菩薩像(極楽寺蔵)

講話の終盤は、忍性の日本仏教における意義について、
「忍性は心の救済だけでなく、生活全体からの衆生済度を実行、戒律の根底にあるお釈迦様の衆生救済の心に忠実であろうとした。煩悩充満の穢土である娑婆世界で貧窮、孤独、苦悩を背負って生きる衆生を救いたいという、熱い慈悲の心に生きた菩薩であった」。
一方、死者の弔い、ご利益、観光に特化されがちな現在の日本の仏教界の現状をどう見るか?
「忍性生誕800年を機に、もう一度、仏教の存在を考えるべきでは」と、工藤師は結んだ。

写真・文 小倉つき子