保存継承グループ「大和の祭礼見学・8月」<ほうらんや火祭り>
(1)ほうらんや火祭りとは
橿原市東坊城町内の5地区(弓場・川端・大北・万田・出垣内)と隣接する古川町と合わせて6つの字から、春日神社(大松明4本、役松明2本)、八幡神社(大松明6本、役松明3本、8/14の宵松明1本)へ計16本の松明が奉納され、繰り出した大勢の男衆が火のついた大松明を担ぎ、両社の境内を練り歩く勇壮で賑やかな祭りである。
奈良県の無形民俗文化財に昭和57年3月に指定されている。
平成28年8月15日(月)、例年通り午後1時から春日神社で、午後3時から八幡神社で暑さ真っ盛りの中、「ほうらんや火祭り」は実施された。
当グループでは八幡神社(坊城駅から徒歩5分)の境内で実施された火祭りを7名の会員で見学した。
(2)坊城駅前の大松明にびっくり
午後2時過ぎ近鉄南大阪線の坊城駅南口に降り立つと、駅前に大松明がでんと鎮座していた。(万田区の大松明。早朝から作成された。)
サイズは大きいので高さ約3m、直径約2m、重さは約450kgもあるらしい。ほどなく八幡神社に運び込まれる。
(3)八幡神社に次々と運び込まれる松明
午後2時35分ごろ1番目の大松明(大北区)が30人ほどの男衆によって八幡神社に運び込まれ、拝殿の前に奉納された後、大松明を運び込んだ男衆が並び、太鼓と鈴が打ち振られ、御祓いを受けた。この後、順次運び込みが続く。
午後3過ぎに大松明6本と役松明(小さな松明)3本が全て奉納され、拝殿の前に整列された。なお、松明は割り竹をすだれ状に編み、これに小麦藁や菜種殻、竹笹を巻き込み、ずん胴状に締め付け、その腹部を3~5箇所注連縄で巻き付け、最上部の注連縄に幣(しで)を取り付け、頭部正面には「えび」という注連縄を飾り付けてある。
(4)神事開始
午後3時25分頃に神事開始のアナウンスがあり、この火祭りは(五穀豊穣)・(無病息災)を祈念して行われるとの説明があり祝詞奏上・玉串奉典に移った。
(5)大松明への点火と境内の練り歩き
午後3時45分頃から、まず拝殿の正面に奉納された大松明(大北区)を約30名の男衆がオーコと呼ばれる太いにない棒で担ぎ、火をつけないで境内を一周した後、正面で神前から採られた火をつけ、「ワッショイ、ワッショイ」と大きな掛け声と共に、境内を2周した後、正面に降ろされ燃えるままにしておく。
順次同様のことを残る5本についても実施された。
気温が36度を超えて暑い上に、大松明の火の熱気と男衆の力のこもった真剣な熱さが、見学者にもジンジンと伝わってくる。
点火された大松明は時計回りに境内を2周する。
気温36度と大松明の火力と男衆の熱気がすさまじい。
(6)祭事の終了
午後5時頃、燃やされた6本全ての大松明が拝殿の前に置かれ、最後に3つの役松明に点火される。祭事が終わると拝殿内から手打ちが起こり、これに呼応して氏子から手打ちが起こってお開きになった。
3本の役松明に点火され最後の手打ち式で終了する。
(7)村島兵市氏へのインタビュー
後日、長年八幡神社宮総代を務められたことのある村島兵市氏に「ほうらんや火祭り」について、素朴な質問を通じて、貴重なお話と資料を拝見することができた。
①「ほうらんや」の意味
「ほうらんや」の意味・語源は不明。
②なぜ男衆は浴衣なのか
浴衣・地下足袋が昔からの本来の伝統。
③神社と祭りの歴史は?(村島家で古文書を拝見した)
・八幡神社宮座が所有の古文書によると、八幡神社は元和元歳(1615)8月吉日の「宮座帳箱」や元和玖暦(1623)の奉加帳の記述、隣接する大日堂の仏画(奈良博へ寄託)からも創建は、室町時代まで遡ることができると見られる。
・祭りの歴史は、伝承では一説に300年ほど昔、八幡神社の一隅にあった豪族の墓地を移動させた折に、さ迷った亡霊を鎮め清めるために始められたと伝わる。
・祭りの記録資料としては唯一、村島家所蔵の万延元年(1860)の庄屋「村島吉助の日記」が残っており、多人数参加の神事が古法に則り、厳格に行われていたことが窺い知れる。
④保存継承についての問題点・課題等
・資材調達の問題、・作り手、担ぎ手の不足の問題、・技術伝承の問題等を指摘。
最後に、ほうらんや火祭りについては古来の神事として継続の決意を語られた。
(写真・文 保存継承グループ 亀田幸英)