保存継承グループ 明日香村の綱掛神事見学記
明日香村稲渕の男綱の綱掛神事=1月9日(月・祝)
明日香村栢森の女綱の綱掛神事=1月11日(水)
万葉集にも登場する飛鳥川。大和川水系の一級河川ですが、明日香村の古代の遺跡群をぬうように流れる光景には歴史感が漂います。その源流は明日香村南部の山間地で、稲渕(いなぶち)地区と、同地区から約2キロ上流の栢森(かやのもり)地区では、正月の伝統行事として飛鳥川の上に綱を掛ける神事が有名です。
毎年、成人の日に行われるのが稲渕地区の男綱(おづな)の綱掛神事。男綱には、高さ約1.2メートル、直径約30センチの円筒形にした藁製の陽物(男性器を模したもの)が付けられます。
綱と陽物の製作は地区の約50戸から男女約30人が出て、午前中から飛鳥川に架かる県道の神所(かんじょ)橋下の旧神所橋横の空き地でスタート。冷え込みと雨の中、藁を編み込んだ長さ約70メートル、直径5センチほどの綱が出来上がり、さらに約1メートル間隔で緑の榊、白い御幣、藁の順に挟み込んで午後2時半ごろに完成し、陽物を取り付けた。綱張りでは全員で力を合わせ、県道の上に架けながら飛鳥川の流れの上部に陽物がくるよう両岸の木にくくり付けられました。
午後3時すぎから旧神所橋にしつらえた祭壇前で儀式が始まり、割り竹の先にみかんを刺したお供えが橋の欄干に並べられる中、同村の飛鳥坐神社宮司が祝詞を奏上。参列者が玉串を奉納した後、宮司が米、清酒、塩などを川に投げ落として終わりました。
以前、陽物は綱にひもでくくり付けただけでしたので、夏ごろには川に落下していたそうです。大字総代の今西一成さん(67)は「男綱を見物に来られる方もいますので20年ほど前から綱の中心にロープを入れ、陽物も綱とワイヤでつなぐるようになり、落下はしなくなりました」と話していました。
2日後の栢森地区の女綱(めづな)の綱掛神事は、稲渕地区の綱掛神事と対になるものです。二つの神事がいつごろから始まったか確かな記録はないそうですが、地元では「飛鳥時代から続いてきたらしい」との言い伝えもあります。
昼前から地区の共同作業所で藁を使った綱と陰物(女性器を模したもの)作りが始まり、凛とした寒さの中、地区の約25戸から役員の男性10人ほどが作業に当たりました。綱は直径約5センチで、長さは約70メートルあり、陰物は長さ約60センチ、直径30センチの円錐形状で、完成時には榊と御幣も取り付けられました。
準備が整うと、午後4時すぎに地区の龍福寺住職を先頭に役員が陰物、みかんを青竹の先にしつらえたお供え、綱を手に持ったり、担いで行列。地区北側の約200メートル離れた飛鳥川の綱掛場へ移動しました。
右岸のフクイシと呼ばれる高さ1メートルほどの磐座(いわくら)に女綱の一部をささげるように置いた後、読経。川と県道をまたいで綱を両岸の大木に巻き付け、陰物は幅2メートルほどの川の流れの上に来るように調整されました。大字総代の古川雅章さん(61)は「うるち米より餅米のほうが藁がしっかりしているんですが、近年は餅米の収穫量が減り、うるち米の藁が大半。綱が切れないよう、女綱でも中心にロープを入れています」と言います。
両地区の綱掛神事、綱に取り付ける陽物、陰物の違いのほかにも差異があります。儀式は稲渕が神式、栢森が仏式、お供えのみかんは稲渕が割った青竹の1本1本の先にみかんを刺すのに対し、栢森は太い1本の青竹の先に1列4個のみかんを突き刺したものを4列に組んでいます。
興味深いのは、実施日が稲渕は成人の日(1月第2月曜)なのに対し、栢森は11日。栢森では明治時代に実施日を変えたところ、地区の民家のほぼ半数が焼ける大火があり、以降は11日にしているといいます。
神所橋近くに明日香村が設置した説明板によると、綱掛神事は子孫繁栄と五穀豊穣を願う一方、川や道を通って悪疫が地区に侵入するのを防ぐことも祈願します。そのため、陽物、陰物に青竹と共に飾られる御幣は、下流の稲渕では下流側に向けて、上流の栢森では上流側に向けて付けられます。
万葉集の研究で知られる奈良大教授の上野誠さんが20代のころ、この綱掛神事に関する論文を「飛鳥の祭りと伝承」(桜楓社刊、共著)に発表しています。その中では「巨視的に見れば、オツナカケは奈良県から広く近畿圏分布するツナによる正月の結界儀式ということができる」とし、「微視的に見ると(中略)飛鳥川という川と人との関わりの中ではぐくまれた祭り」としています。
両地区の綱掛神事を間近で接し、住民の方々が協力して伝統を守っておられる姿に感銘すると共に、過疎化・高齢化や離農が進む地域で今後も課題に対応しながら継承していってもらいたいとの思いを強くしました。
文・写真 保存継承グループ 久門たつお