女性グループ(ソムリエンヌ)活動報告「早春の生駒高山の里」
節分を過ぎたころ、茶筌の里で有名な高山地区を訪れた。学研北生駒駅から富雄川に沿って北に行き高山大橋を過ぎて少し行くと、右手に高山竹林園がある。
付近の刈り取られた田んぼの中に、数十本ずつ直径4,5センチ、長さ130センチ余りに揃えられた竹干しがあちらこちらに見て取れた。淡竹と呼ばれ、甘く柔らかいため、育てるのも難しくそのうえ油抜きから始まり数年かけての干し、寝かす作業は細かで繊細な作業と言われている。
竹林園の中は資料館や茶室があり、隔週の日曜日には茶筌の実演を見ることができる。
茶筌師の味削りの見事な手さばきに見とれるばかりであるが、小刀にも少し工夫があると聞いた。以前から気になっていた、茶筅と茶筌のちがいを久保氏に尋ねると、この高山では茶筌というそうだ、“竹を全うする”作り手の心が伝わる言葉に感心した。
高山茶筌は全国シェア90%を占めこの地を納めていた高山氏が村田珠光から茶の指導を受け15世紀には高山の竹を使い考案したものと言われている。没落ののち家臣たちが製法の秘伝を伝え続け現在につなげている。ちなみに東大寺再建の公慶上人はこの高山の最後の当主の第7子だと言われていて、竹林園内の円楽寺跡には公慶上人の御父母の五輪塔が残っている。
竹林園から少し富雄川沿いを南に下るとこんもりとした森が左手に見えてくる、8世紀半ば宇佐八幡宮から入京の途中に頓宮と伝えられる高山八幡宮がこの地に鎮座される。
本殿三間社流造、檜皮葺、重要文化財に指定されている。本殿前には拝殿、その前には18世紀の棟札を持つ舞台もある。前庭の東西には無足人座をはじめ7座の建物が建つ。
この高山八幡宮と深く結びつきがあるのが、富雄川をはさんで向かいにある東大寺別院法楽寺である。古く奈良時代に奈良盆地西北の要として聖武天皇が行基によって開創されたと伝えられる。ご本尊の薬師如来は秘仏で(お正月1週間だけ開帳される)平安時代漆箔の寄木造、像高86.2㎝のお姿で、再々の火災にもご無事であるところから「火除けの薬師]として霊験あらたかと言われ今も人々の信仰を集めている。
明治の初めごろまで高山八幡宮の御神像であった、木造僧形八幡神座像と神功皇后座像の二体がこの法楽寺に所蔵されていて、鎮守社との深いつながりを感じさせる。
前を流れる富雄川は南に流れ大和川に合流しているが、高山地区は都の西北の守り、重要な場所として奈良から京都への物や人の流通は、今の,交野、枚方を通り淀川へと、北に流れ込む天野川が利用されていたと言い、京都側の沼地を迂回せざるを得ない古の人々の、大切な船の道としてこの辺りも栄えていたであろうとご住職に教えていただく。
今現在の法楽寺は約2年前、棟札銘から1633年に再建された本堂を、約20m下の場所から建物ごと少しずつ持ち上げ、現在の場所へ移動させる大工事であった。以前の場所は日当たりも悪く縁の下の柱は腐りかけ雨漏りもあったそうだ。お寺の伽藍は歴史の受難もあり、1333年兵火で伽藍が消失、そして大仏殿焼き討ちの際にも消失するも、当地の高山氏により再興されたと伝わる。 今現在に至るまで、ご本尊共々伝統建造物を守るため、人々の見えない地道な努力が日々続けられていることを改めて知ることができた。
お寺を後に参道を下りふと振り返ると、ご住職がまだ寒い中立っておられ、春まだ早い富雄川の川面の風も心なしかそよ風に感じられ、ぜひ来年のお正月はお参りさせていただきたく帰路に就いた。
文 関 美耶子 写真 道崎 美幸