東京の古墳巡り ~南武蔵の首長墓群を訪ねて~

東京にも古墳がある。しかも4世紀前半に造られた100m級の前方後円墳が。
関東グループでは「関東にある奈良」をテーマに、これまで関東各地の国府跡・国分寺跡・古墳などを訪ねてきたが、2月11日、メンバー8人が参加し、大田区から世田谷区にかけて多摩川沿いに広がる「田園調布古墳群」「野毛古墳群」を訪ねた。

スタートの東急多摩川駅から5分ほどの「多摩川浅間神社」。北条政子が源頼朝の武運を富士に祈ったのが創建の由来という。境内から多摩川越しに富士を望むロケーションは素晴らしい筈だがこの日は残念ながら見えず、残念。実は、ここは「浅間神社古墳」(5世紀末~6世紀初頭、前方後円墳・長さ約60m)の上、本殿が後円部墳頂に建っている。ただし、今では前方部は東急線でそっくり削られてしまっている。

多摩川沿いの尾根に広がる多摩川台公園。ここに100m級の前方後円墳「亀甲山(かめのこやま)古墳」(4世紀末~5世紀初頭)がある。この古墳は本格的な調査はされておらず、さらに立ち入りも禁止されているため、後円部と前方部の高さがあまり違わないことや、中ほどのクビレの部分もよくわかり、比較的元の形を保っているように見える。

亀甲山古墳の脇には、大田区内の4~6世紀の古墳のことがまとめてわかる古墳展示室がある。古墳内部を模した展示コーナーが見所。

多摩川台公園の中ほどに直径20mに満たない円墳や小さな前方後円墳が8個並んだ「多摩川台古墳群」(6世紀前半~7世紀前半)がある。それぞれ横穴式石室を持ち、遺物の一部は古墳展示室で見ることができる。

公園の一番北側に、もう一つの100m級前方後円墳「宝莱山古墳」がある。田園調布古墳群の中で最も初期(4世紀前半)というから、最古の箸墓古墳から半世紀余り後には造られていたことになる。しかし、戦前の田園調布の住宅開発で後円部から鞍部がほとんど削られてしまった。掘削工事の最中に粘土で覆われた木棺が出土している。案内板が無いと古墳とは気づかないかもしれない。

昼食をとった「兵隊家」という田園調布の蕎麦屋。戦前に住宅開発された田園調布には軍関係者の入居が多かったとか。それも店の名前の由来らしい。

世田谷区に入って、「八幡塚古墳」(5世紀中)は直径30mほどの帆立貝型古墳。宇佐神社裏山の雑木林の中で住宅地に囲まれながらも異空間を保っている。

「狐塚古墳」(5世紀後)は今や区の緑地公園として整備され、周囲をコンクリートで固められている。案内板によると、墳形が円墳なのか帆立貝型なのか最終確認されておらず、粘土で覆われていると推定される木棺もまだ掘り出されていないとある。

「御岳山古墳」(5世紀中期)も住宅街の一角にある。向かいの等々力不動尊で許可をもらい墳頂まで登ることが出来た。規模は野毛大塚古墳に次ぐ直径57mの帆立貝型前方後円墳とされ、戦前の調査で周りに7個の鈴の付いた鏡(七鈴鏡)が出土している。

「等々力渓谷横穴墓」は、等々力渓谷の壁面に古墳時代から奈良時代にかけて使われ、須恵器や土師器とともに複数の人骨も発見されているという。第3号横穴墓はガラス越しに内部を見ることが出来るが。他は埋まってしまったのか見つけることが出来なかった。

直径60mの「野毛大塚古墳」は、野毛古墳群の中で最も大きく、玉川野毛町公園内にきれいに再現されている。墳頂にも簡単に登れる。墳丘上からは、裾にとりついた小さな帆立貝型の前方部や造出部の様子が見える。ここの出土品は、一昨年秋に国の重要文化財に指定され、東博でも一部公開された。
見てきたこれらの古墳を築造年代順に並べると、宝莱山→亀甲山→野毛大塚→八幡塚→御岳山→浅間神社→狐塚→多摩川台古墳群となるらしいが、初期にこそ100m級があるものの、南武蔵の古墳は次第に小さなものになっている。これに比べ、北武蔵の埼玉古墳群(行田市)には逆に大きな古墳が築造されるようになった。
6世紀半ば、武蔵国の覇権をめぐって南武蔵と北武蔵で争った歴史の舞台は、大都会東京に飲み込まれながらもかろうじて残っていた。ここから新たな歴史の光が見えてきたら嬉しいなと実感した探訪だった。

関東グループ  原 英男  撮影:宮下 清、西田 暢秀、原 英男