日本書記・「禁断の恋!軽皇子と軽皇女」
実施日 2020年11月29日(日)
行程 近鉄橿原神宮前駅集合⇒橿原公苑⇒いもあらい地蔵尊⇒田中廃寺(田中宮跡)⇒馬立伊勢部田中神社⇒和田廃寺⇒甘樫丘休憩所(昼食)⇒剣池⇒石川精舎跡⇒軽寺跡⇒五条野丸山古墳⇒近鉄岡寺駅(解散)
(徒歩約6Km)
「歩く・見る・学ぶ!『日本書記』物語2020」シリーズの「橿原コース」編。日本書記が伝える軽皇子と軽皇女の悲恋物語は、主人公の名前に「軽」が付くことから、その舞台は「軽」の地であったと思われます。「軽」の地に点在する神社や寺跡を巡り、古代史の舞台に思いを馳せてみます。
秋が深まり紅葉が映える晴天の下、36名の参加者は7班に分かれて順次スタート。そのウォーキングの様子をご紹介します。
講演会場の橿原公苑で木村三彦さんの講演を聞きました。「禁断の恋!軽皇子と軽皇女」の悲恋物語や日本書記に登場する「軽」の表記がある地名などの説明があり、皆さんメモを取って熱心に聞いています。
“いも”は天然痘のこと、病気が入ってこないようにと地蔵が祀られました。また芋、或いは妹にも通じ、空を飛んでいた久米仙人が川で洗い物をしていた若い女性のふくら脛を見て心を乱し、飛行の神通力を失ってその女性の前に墜落したとか。
田中宮は舒明天皇が飛鳥岡本宮の焼失後、百済宮に遷るまでの仮宮としてこの地に構えたといわれています。
その後、寺院(田中廃寺)が建立されました。
もと飛鳥川近辺の字古宮の地に鎮座していたが慶長年間に飛島川の洪水の為も流されて現在の地に遷座したとのことです。
田んぼの中にぽつんと土の高まりがあり、7世紀後半の寺院塔跡と分かりました。この寺院は、蘇我氏と密接な関係にあった葛木臣の氏寺という説があります。藤原京の朱雀大路がこの辺りまで伸びていたかも知れません。
白い杭の向こう側が剣池で、こちら側が石川池です。池の南側は孝元天皇陵です。
蘇我馬子が百済から貰った仏像を安置した仏殿との説明。でも古瓦も出土していないし確証はないらしいです。
軽寺は飛鳥時代に建てられたと考えられています。悲劇の主人公・軽皇子や軽皇女はこの辺りに住んでいたのでしょう。
奈良県で最大の前方後円墳です。東側から眺めるとその大きさが実感できます。被葬者は欽明天皇とその妃・堅塩媛(きたしひめ)、或いは蘇我稲目という説があり、まだ決着が着いていないらしいです。その謎について参加者から多くの質問が出ました。
「日本書記」に登場する古代史の舞台を、また普段はめったに行かないところを巡り、皆さんご満足の様子でした。