感動!市町村指定文化財① 山の辺の道「奈良道」の隠れ名所

奈良盆地東に連なる山々のすそ野を南北に走る「山の辺の道」。桜井市、天理市、奈良市にまたがる30㎞以上の、『日本書紀』にもその名を残す、日本最古の道とされています。里山を歩いていると、沿道には古代の遺跡や古社寺、伝説が次々に展開してきます。まさに大和の始まり、日本の始まりにふれるロマンチック街道です。

山の辺の道・奈良道(山の辺の道・奈良道を守る会資料より)

桜井市金谷から、天理市の石上神宮までが人気コース。さらに北へ延びる奈良市虚空蔵町辺りから高畑町までを「奈良道」と称して整備しているところなのですが、行き交う人は一挙に減ります。認知度が低いのと、名高い文化遺産が少ないからなのでしょう。

ところが保存継承グループの活動で奈良市指定文化財を取材していると、ひっそりと佇む名仏師の仏像や思わぬ歴史に出合いました。

▶嶋田神社(奈良市八島町325)
・崇道(すどう)天皇を祭祀
山町から円照寺を過ぎ、八島町に入るとまず崇道天皇陵の常夜灯にさしかかります。
桓武天皇の同母弟にあたる早良親王が、藤原種継暗殺の罪に問われ、配流先の淡路に向かう途中で亡くなります。その後皇室に災いが相次いだことから、早良親王の祟りではないかと畏れた朝廷が追贈した諡号(しごう)が、崇道天皇です。配流先の淡路で埋葬されていた遺骨を分骨して奈良八島の地に改葬し、八島寺と崇道天皇社が建立されました。崇道天皇の追贈後も朝廷は親王の怨念を畏れ、その御魂を鎮めるために奈良市の西紀寺町をはじめ各地に神社を建立しました。御霊信仰の始まりと言ってもいいでしょう。
明治初年ごろ八島の埋葬地は「崇道天皇八島陵」と比定され、御陵として整備されるに際して八島寺は廃寺になりました。崇道天皇社は、同天皇遺骨が埋葬される以前からすでに存在していた嶋田神社に合祀されて現在に至るということです。この嶋田神社こそが、各地の崇道天皇社の起源ともいえる古社なのです。
ちなみに嶋田神社は神武天皇の皇子である神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と崇道天皇(早良親王)が祀られている、式内社です。

嶋田神社

・本殿は春日大社旧本殿(奈良市指定文化財)
嶋田神社本殿は、春日大社の式年造替に伴い譲渡された旧本社本殿のひとつ。宝永6年(1709)建立の春日大社本社本殿第三殿が、享保12年(1727)頃移築され、明治19年(1886)現在地に再移築されました。建立や移築の経緯が明らかで、当初形式をよく残す貴重な建物であることから、昭和57年(1982)に奈良市指定文化財に指定されました。
嶋田神社の維持・管理は、地元八島町(戸数約50戸)住民総回りの当家制を取り入れ、境内の清掃や秋の例祭などの諸行事を執り行いながら、大切に守っておられるのです。

嶋田神社本殿(春日大社旧本殿)

▶満願寺本尊・宿院仏師作「木造薬師如来坐像」
嶋田神社を北へ進むと平尾池があります。その東の奈良道沿に飛鳥時代創建で西向きの四天王寺式伽藍配置の古代寺院・小野寺の推定地とされる、現横井廃寺跡があります。
浄土宗満願寺の寺伝によると、この小野寺が落雷により焼失したため、永禄4年(1561)に現在地に移り、今日に及んでいるとのことです。

満願寺薬師堂

満願寺の本尊は像高40㎝ほど薬師如来坐像で、永禄5年(1562)に宿院仏師源三郎によって造られた、木造・素地作りの仏像です。
椿井仏師衰退後に活躍したのが宿院仏師で、室町時代後期に興福寺近くの宿院町に工房を構えていた仏師集団です。特定の寺院に属さず、伝統的な仏師の系譜にも連ならない、番匠(大工)出身の源四郎を最初の棟梁とした仏師工房です。源四郎の工房から独立して大仏師として活躍したのが源三郎で、同寺本尊頭部の墨書にその名が記されていることから、昭和60年(1985)に奈良市指定文化財に指定されました。

満願寺本尊薬師如来坐像

良質のヒノキを使用した寄木造で、美しい素地仕上げです。小像ながら安定感のある坐像。
顔つきは吊り上がった大きな目が特徴で、その目力に圧倒される個性的な表現です。

薬師如来像の奈良市指定文化財案内書

▶鹿野園町集会所安置・椿井仏師作「木造十一面観音立像」
鹿野園町の集会所に、ヒノキの寄木造りの木造十一面観音立像が安置されています(令和4年(2022)、奈良市指定文化財に指定)。
本像は像高100㎝足らずですが、右手に錫杖(しゃくじょう)を執り、左手に蓮華茎を挿した水瓶を握る、いわゆる長谷寺式十一面観音菩薩像の一例です。頭上にいただく十面の配列は乱れていますが、後補は一面だけです。眉や唇に彩色するほかは素地仕上げで、白毫と眼には水晶がはめられています。眉と眼が大きく、しかも吊り上がっており、精悍な顔つきです。
撫で肩で上半身が少し長め、つまり胴長ですが、腰を左にひねって左足を軸足にして両足先を外に開いて立っており、安定感ある表現です。横から見ると全身が少し前に傾斜しているのも特徴です。

鹿野園町集会所安置の十一面観音菩薩像

作風が椿井仏師舜慶の様式に酷似しており、同じ作家か、同じ工房で造像された可能性が高いということです。室町時代の奈良では、慶派から独立し、興福寺に所属する椿井(つばい)仏所(現奈良市椿井町付近)が活躍しており、舜慶は椿井仏所のなかで傑出した仏師です。

鹿野園町集会所にて法要

本像は明治時代初めごろに廃寺になった鹿野園町の梵福寺(ぼんぷくじ)の本尊と伝わります。同寺の創建については詳らかではありませんが、『大和誌』では岩淵寺の子院であると記しています。
『梵福寺観音縁起』(寛文6年(1666)奧書)には「長和2年(1013)、長谷観音を信仰する朝欣上人の侍童が鹿野園で十一面観音となり、梵福寺に安置された」という伝説が記されています。観音信仰を背景に、本尊が尊ばれてきたのでしょう。

奈良市東方の小さな町に、名仏師たち造像の仏像が今も大切に祀られています。
仏教伝来の地・奈良にはこうした「隠れ仏」が、山間の村や過疎の町でひっそりと守られているのです。
山の辺の道・奈良道にも、観光案内には紹介されていない隠れ名所が点在しています。つぶさに歩くほどに、奈良は面白い。

保存継承グループ・市町村指定文化財取材より
写真:本井良明、小倉つき子 文:小倉つき子