感動!市町村指定文化財③ 伝香寺が継いできた、母の気概と筒井一族

保存継承グループでは、現在、県内の市町村指定文化財を訪ね、平素関わっておられる方々からどのような思いで守ってきたのか聞き取りをしています。2024年3月12日は、奈良市小川町にある伝香寺の木造釈迦如来坐像を訪ねました。

伝香寺といえば奈良の三名椿の一つ「散り椿」別名「武士(もののふ)椿」で知られています。温暖化の昨今はもう咲いているだろうかと想像しながら寺へと向かいました。境内ではたくさんの椿の花が咲き、雨の中、葉の緑と花の桃色の対比がいっそう美しく見えました。

本堂手前の武士椿

本堂にお参りすると、西山明彦(みょうげん)住職と西山明範(みょうはん)副住職がにこやかに出迎えてくださいました。本堂には創建時そのままの須弥壇が据えられ、中央に飛天が舞う透かし彫りの光背を備えた木造の釈迦如来さまが坐っておられました。奈良市指定の文化財です。暗いお堂の中で、1本の太いろうそくの灯りに映える仏様のお姿は幻想的でした。その仏様の横で西山住職の話がゆっくりと始まりました。

須弥壇と本尊
本尊 木造釈迦如来坐像 奈良市指定文化財)

伝香寺や筒井氏について、次のように語られました。
「筒井順慶は36歳の時に胃潰瘍で亡くなった。母は山田道安の娘で名を尊栄(たかえ)といい、芳秀宗英尼は出家後の法名である。女傑であったという。順慶の菩提を弔うため、母が大徳寺の住持であった竹澗に頼んだ。竹澗から正親町天皇に話が通じて、奈良の土地と仏を拝した。当時豊臣秀吉は方広寺に大仏を造ろうとしていて、その試みの仏が伝香寺に迎え入れられた。光背の枘(ほぞ)に銘があり、作者は仏師宗貞とわかる。」「現伝香寺の地は奈良時代に鑑真の弟子である思詫が草創した実円寺があったところ。ゆえに母はその縁を大切に思い、鑑真が開いた唐招提寺の泉奘(せんじょう)を請じて初代の住職になってもらった。泉奘は今川義元の身内で泉涌寺住職の経歴をもつ。」

本堂

「順慶に子はなく甥の定次が養子となって跡を継いだが、伊賀に追いやられ、徳川によって切腹を命じられた。筒井一族は大名としては絶えたが旗本としては生き残り、江戸末期には筒井家を継いだ筒井政憲が川路聖謨とともに全権大使としてロシアのプチャーチンと交渉し下田条約を結んだ。筒井政憲の奉納した燈籠が春日大社南門の東側のよくわかる場所にある。」

筒井定次の墓

「昭和58年筒井順慶四百回忌の時に、私は大阪中之島図書館に行って、電話帳を見ながら全国の筒井姓の人に手紙を出した。その数約6000通。数が多すぎて大変であった。そのうち210通が、もとは奈良の筒井ですと返事がきた。中には、徳川との関係を代々伝えながら今まで暮らしてきたという方もおられた。今も遠くから『もとは奈良の筒井です』と言って伝香寺にお参りに来る方がある。小説家の筒井康隆氏や上皇后様の帽子を手がけるベルモードの筒井社長も奈良の筒井。」
この時結成された筒井氏同族会によって、筒井順慶法印像と御堂が本堂の脇に造られたそうです。

筒井順慶法印像

さらに西山住職は、五つに割れた筒井茶碗のこと、高野山奥の院の順慶墓と織田信長墓が並ぶ不思議なエピソード、秀長が造らせたものとは違う順慶の郡山城のこと、散り椿の話など、興味深い話を次から次へと湧き出るように語ってくださいました。外は本降りの雨でしたが、堂内ではご住職のお話で非日常の時間を過ごしたように感じました。

本尊 釈迦如来坐像 横から

伝香寺には今回拝観した奈良市指定文化財の木造釈迦如来坐像の他に、本堂(重要文化財)、表門(県指定文化財)、着せ替えで知られる裸形の地蔵菩薩立像(重要文化財)、南無仏太子像(県指定文化財)、筒井順慶画像(市指定文化財)など多くの文化財を保存されています。

西山明彦住職は伝香寺と深い縁のある唐招提寺の前長老で、現在も唐招提寺で奉職されています。伝香寺内のいさがわ幼稚園の園長でもいらっしゃいます。西山明範副住職もいさがわ幼稚園に関わり、多忙な中にあっても笑顔を忘れず子どもたちと接し、大人気の若い僧侶です。
ご住職の言葉を借りるならば「女傑」であった筒井順慶の母・尊栄の強い気持ちを大切に思いながら、伝香寺を守っておられると感じました。

表門

3月12日と7月23日が本堂の特別公開の日となっています。

保存継承グループ  文 西田裕美   写真 石井宏子・西田裕美