女性サークル 結崎お能ワークショップ
2025年10月17日爽やかな秋晴れの一日、「結崎お能ワークショップ」が開催されました。
100年ぶりに改築になった近鉄結崎駅は、無人駅ながら大和棟の屋根に駅のキッチン(カフェ)、交番をそろえ、壁には地場産業の貝ボタン(全国シェア90%)を埋め込み、駅の目の前には日本初の古墳のある駅前広場があるんです。川西町出身の川西康之氏(公共交通機関や駅舎などのデザイナー、建築家)の設計・管理で町づくりにも大きく関わっています。

役場駐車場で車組と合流、10名で先ずは糸井神社へ。祭神は豊鍬入姫命(第10代崇神天皇の皇女)初の斎王とも言われていて、元は宮中で祀られていた天照大御神を笠縫邑に移し、豊鍬入姫命に祀らせました。さらに、綾羽・呉羽の機織の神を祀ったとも伝えられています。
町内各所の神社の秋祭りの最中でお忙しい植嶋宮司さんより、拝殿に掲げられた絵馬の説明がありました。

天保13年(1842年)の「太鼓踊り(なもで踊り)絵馬」(役場玄関にも陶板画としてレプリカあり)は、かつて存在していた神宮寺(観音院)の僧と思われる人物が燈籠に火を付けたり、スイカを切り分け振舞っている様は、大和平野におけるスイカ栽培の歴史を示す資料であり、水(天理の山上から運んできた浄水)に砂糖を入れた水を、砂糖一杯なら何銭、二杯なら更に何銭として売ったりしていたこと(当地は盆地の真ん中で水が良くない)太鼓の音は雨を表すことから、雨乞いの図柄です。西瓜の出回る頃は稲作の中でも特に水を必要とする出穂の時期で、雨乞い祈願の踊りがあったことを示しています。大太鼓は絵馬内左右に二つ描かれていますが、右は神社への搬入、左は行事での使用を表現しており、いわゆる異時同図の表現方法をとっています。
また、天保年間は折しも天保改築の時期で、大木のたもとで代官らしき人が単なる見学ではなく華美な服装などを取り締まる為ための視察だとか。
もう一点は、慶應4年(1868年)の「おかげ踊り」絵馬。
伊勢神宮に群参した「おかげ参り」に発するものですが、特に慶応3年(1867年)8月から12月に流行した“ええじゃないか”の様子が、描かれていると言われています。8人づつ4列に整然と並んで、御幣(しで)、扇・幡(のぼり)を持っています。慶応4年は9月に明治に改元されるので、まさに江戸時代最末期の作品です。
今回は能に関するということで、宮司さんより昭和11年の面塚竣工記念の、古い絵葉書を見せて頂きました。河川改修前の移設前の場所とか、以前は土饅頭と呼ばれる一坪ばかりの塚だったとお聞きしました。

当日のソムリエンヌの参加者横山真紀子さんが、植嶋宮司さんの教え子という事で、小学校以来40年ぶりの再会を果たしました。

次に島の山古墳へ
糸井神社の裏を抜け堤防に出ると眼下に寺川が、そして眼の前に大きな島の山古墳が現れます。いつもは満々と水をたたえている島の山の池も、丁度10月初めから古墳整備工事の為ため水を抜いていて、ほとんど干された状態。

島の山古墳は築造年4世紀末~5世紀初の全長200m超の前方後円墳で、寺川と飛鳥川に挟まれた微高地端に造営されています。約30年前の発掘調査で、前方部の埋葬施設(粘土槨)の棺外遺物として、腕輪形石製品133点が出土。日本最大個数を誇っています。被葬者は、大和盆地の中央部で米を育て力を蓄え、土地を開発したヤマト王権を支えるためのリーダーが葬られた可能性があります。
島の山古墳の西側に比売久波神社があります。祭神は桑そのものの久波御魂神と天八千千姫(天棚機姫神)で、養蚕を想起させる神名となっています。
「延喜式神名帳」に記載の式内社で、拝殿は江戸初期のもので、春日大社摂社若宮神社本殿を移築した「春日移し」で、現存する中で最も古いものに属します。

更に西側に神宮寺としての箕輪寺がありましたが、平成20年(2008)に大風で倒壊、廃寺となり、基石だけが残っています。所蔵の本尊木造十一面観音立像は、鎌倉時代(13世紀)の制作で作者は不明ですが、非常に細やかな装飾が施された優品です。現在は隣寺に客仏として祀られています。
=箕輪焼伝説=
箕輪寺付近で陶器を製作していた、加藤藤四郎という人物がいて、その陶器の事を「箕輪焼」と呼んでいたそうです。所変わって愛知県瀬戸市「瀬戸焼」の地の陶製の碑に刻まれた碑文に、「陶祖の姓は藤原、名は景正、加藤四郎左衛門という。祖父は橘知貞、大和の国諸輪荘道蔭村の出である」とあり、この中の道蔭村が唐院のかつての呼び名であり、加藤藤四郎左衛門が唐院で藤四郎と呼ばれた人物です。唐院と瀬戸市をつなぐもので、興味深いです。唐院の呼び名は瀬戸の陶碑にあるように「磯城郡誌」にも「古、昔この地は道蔭と称せし、遂に唐院の字に転訛せしという。箕輪寺の什寶にその名を存す」道蔭みちかげ―音読みしどういん、とういんになったと言われていますと。
平安初期、空海が遣唐使として先進国唐より持ち帰った貴重な文物、学問の影響により、結果唐の学問所としての唐院が、東福寺、興福寺、大津の三井寺に建立されました。この道蔭村にも、箕輪寺という10世紀の平安時代には存在した格式のある真言密教の学問道場があったそうです。
唐院の村を出て面塚へ
寺川のほとり、何度かの河川改修の後、昭和42年(1967年)現在地に移設。

歴史は室町時代、この地に結崎清次という猿楽師がいました。当時大和には「大和猿楽四座」という猿楽をおこなう座があり、清次はその一つの結崎座を率いていました。ある時京都で御前演奏がおこなわれます。そこで成功を祈願して近隣の糸井神社へ日参したところ、不思議な夢を見ました。天から翁の面と一束の葱が降ってくる夢です。そこで夢に見た場所に行ってみると、実際に面とネギが落ちていました。奇瑞であると思った清次は、御前演奏でその面をつけて舞をしたところ、大いにお褒めの言葉を預かりました。また一緒に落ちていた葱はこの地で栽培されるようになり、「結崎ネブカ」の名で特産物となったということです。
=寺川の寺はどこの寺か?=
寺川の上流源となる妙楽寺(談山神社)です。その流れのほとりに桜井外山座(室生)田原本円満井座(金春)、そして結崎座(観世)と能に関する寺川文化が花開いたわけです。
昼食は役場前の「ねぶっか」で簡単なランチを‼
スープの中にネギが‼結崎ネブカが浮いていました。

昼食後は今日のメインイベント“お能のワークショップ”。
役場文化会館の和室をお借りして、講師の先生は観世流能楽師シテ方の前田和子先生。「結崎観世会」の講師を務めておられます。この会は川西町結崎が結崎座発祥の地であることから、素人団体でありながら特別に観世流宗家から「観世会」の名称使用許可を頂き、50年間活動しているそうです。
まず、「能とは」の講義。大和猿楽四座(結崎、外山、円満井、坂戸座)があります。日本生まれの音楽劇で、平安時代9世紀に散楽、田楽、舞楽などを経て室町時代14世紀に談山神社(妙楽寺)、興福寺等の社寺に出仕。室町時代足利義満に観阿弥、世阿弥がとりたてられ、武士、貴族階級で盛んになりました。能の完成者である世阿弥は、夢幻能(夢の世界の物語)を創りました。
例として「羽衣」「井筒」等のお話をして頂き、謡のお稽古に移りました。お目出度い席で披露される「高砂」を。細身の先生のお身体全体から発せられる大きなお声に驚きつつ、まず姿勢‼を正して、お腹からの発声。謡本の詞章では難しいので、四線譜にして詞をのせたもので。一字一句解説しながら教えて頂いた何とか皆さんも大きな声でついて行けました。
最後は仕舞い。
武士の芸能と言われるだけ、背中の下、腰の上あたりに重心を持っていくそうだが・・・。足の運び方もすり足の仕方も、踵をつけて歩くと上手く、指先も浮く。雨の日、雪の日の滑らない歩き方になると防災面でも良いですよとおっしゃったのが、印象的でした。

1時間程の予定だったのが、先生の熱心で丁寧なご指導で2時間近くにもなりました。少しは能を感じていただけたかな?

文・辰巳裕世 写真・本田倫子

