北・山の辺の道を歩いて(奈良再発見サークル)

友の会の皆様 こんにちは 小北博孝です
10月8日開催 ソムリエ友の会の交流部会「奈良再発見サークル」の催しに参加しました。
今年6月に発会して以降、友の会の活動は主として部会を設置し、それぞれ活動の計画が練られてきた。
今回その第1号として交流部会「奈良再発見サークル」の企画により、北・山の辺の道での社寺・遺跡の再発見が実施された。
その副題が「影媛伝説を訪ねて」となっており大いに期待が持てそうである。
予備知識のために影媛伝説を調べた。要約は以下の通り。
影媛伝説は6世紀の初め物部麁鹿火の娘影媛をめぐって小泊瀬皇子(後の武烈天皇)と大臣平群真鳥の息子「鮪」(しび)が恋争いをし、負けた小泊瀬皇子側は真鳥・鮪親子を大伴金村に命じて平城山で殺害した。鮪の身を案じた影媛は山の辺の道を石上から佐保に向かって駆け上ったという話が伝わっている。
書紀にはこの時の歌がある「石上 布留過ぎて 薦枕 高橋すぎ・・・影媛あわれ・・」
朝9時にJR奈良駅集合 桜井線で櫟本駅に向かう。車内はリュックとストックを持った高齢者でほぼ満員。なにか現代の世相の一端を垣間見るようだ。
櫟本駅で下車。ここで開会式があり今日のコースの説明を受ける。
9;20 一路虚空蔵山目指して出発する。一行は15名。

JR櫟本駅(あまり乗降客は無いようだ)

10分足らずで、いきなり再発見の第1号「高良神社」に着く。おそらく通常ではよほどの物好きでない限り訪れることは無いスポットである。

高良神社本殿

高良神社と言えば福岡県久留米市の高良神社が筑後一の宮で有名。大阪近辺では石清水八幡宮の摂社や寝屋川市にも同名の神社がある。
この高良神社の縁起はよく分からないが、この地には奈良時代「長寺」があってその跡地に祀られているらしい。付近一帯から古瓦が出土し長寺、瓦釡などの地名が残る。
次に5分あまり歩いて「楢神社」に着く。この神社はかつての上街道(伊勢街道)に面している。上街道は奈良の肘塚町から帯解を経て三輪に通じている古の幹線道でもある(上つ道ではない)。この道はさらに初瀬をとおり伊勢にまで延びている。

楢神社 本殿時計の下にあるのがザクロの木


楢神社の祭神は孝霊天皇第二皇子の五十狭芹彦命(イサセリビコノミコト)でまたの名は大吉備津彦命で山陽道や北陸道を平定した。
もう一つの祭神は鬼子母神で、鬼子母神は人間の子供を次々食べていたが、釈迦に諭され子供を食べる代わりにザクロを食べて我慢した。以後仏法の善神となり子どもと安産の守り神になった。
本殿左側にはザクロが植えてある。また本殿前の狛犬は柵で囲まれており、境内裏側にも一対の狛犬があるのも珍しい。
なお社殿は春日大社第五十二次造替(1861年)に際し払い下げを受け移築したものという。
国道169号線を越えてさらに東に上がる。

街道を行く 新調の旗が眩しい

今回は立ち寄らなかったが、近くに「かぼちゃ薬師」なるものがあり、後でわかったが目や耳の病にご利益があるらしい。高齢者が多い一行だからお詣りすればよかった。私的には惜しいことをした。
いかにも古そうな街道の和邇坂を上がる。

和邇坂

9;40 次は和邇坐赤坂比古神社に着く。祭神は阿田賀田須命(アタガタス)と市杵島姫命(イチキシマ)。
古代豪族和邇氏の氏神で式内社。和邇氏の祖神を祀った神社であるらしい。

和邇坐赤坂比古神社

付近一帯は旧東大寺領で、東大寺山古墳、赤土山古墳などの東大寺山古墳群があり、いたるところに赤土が見られるらしい。
話は少しややこしくなるが、古事記の崇神天皇記では「すなわち丸邇臣(和邇氏)の祖、日子国夫玖命を副えて遣わししとき、すなわち丸邇坂(和邇坂)に忌瓶をすえて罷り往きき・・・」とあり赤坂比古は和邇坂の神を祀ったものであるとされている。
また、祭神の市杵島姫命は、アマテラスとスサノオノ誓約から生まれた三神の一柱で、宗像神社の祭神として知られ航海安全の神である。
境内本殿奥に横穴式石室を持った円墳があるらしいが、今は見ることが出来ず説明書きなどもなかった。
ここを出発して一路弘仁寺に向かう。
真っ青な空はあくまで高く、遠くに青垣の山並みが続き、なだらかな田園の中を進む。所々で稲刈りをしている風情が秋本番を感じさせる。このあたりから先は「清澄の里」といわれるが何とも心に響く名前でもある。

遠くに青垣の山々がかすむ

途中メンバーの方から珍しいものを紹介された。
「マコモダケ」という砂糖キビのような植物が植えてある。茎はトウモロコシに似ていて葉は砂糖キビのようで岳は150センチ程度。地元の限られた地域で栽培されているらしい。
初めて聞いた名前であるので後で調べてみると。
マコモダケは池や沼に茂生するイネ科の水生植物でマコモの花芽に黒穂菌が寄生し、根元が筍状に肥大したもので食用とする。原産地は中国から東南アジアで、お釈迦様がその葉でムシロを編み病人を寝かせて治療したという伝説があるらしい。日本でも出雲大社などの神事で使われる霊草である。とあった。
たぶん菌が寄生して大きくなることからキノコみたいでまこも「ダケ」いう名前がついたのかも・・・ 世の中は知らないことだらけです。
10;55 虚空蔵山弘仁寺に到着
豪壮な本堂の重層屋根が印象的である。最近改装された甍が眩しく光っている。
寺の計らいで本堂の中に上げていただき住職の説明を受ける。つい先年建立1200年の法要を営まれた。
本尊の虚空蔵菩薩は秘仏で逗子の中に入っておられるが、逗子の両脇に四天王立像が祀られている。平安初期から鎌倉にかけての木造で厳しいお顔立ちである。いずれも重要文化財。

虚空蔵山弘仁寺

外に出て軒裏を見上げるとたくさんの絵馬が懸り、中でも珍しいのは「算額」が懸っている。
寺には算額のパンフが販売されており詳しい計算が紹介されている。それによると算額は江戸時代の数学者が好みの問題と解答を額に仕立てて社寺に奉納する風潮が流行し、初めは数学絵馬と言われていた。
この寺の算額は安政5年に石田算額軒の門弟たちによって奉納されたもので、近畿地方で最も豪華な算額と言われている。

算額

ここで少し早い昼食タイム
訪れる人も少なく貸切のような静かな境内での昼食。メンバーの方々からチョコレートや冷えた梨、マンナンゼリーなどを頂く。
出発前に本堂の前で集合記念写真が撮られた。皆さんお年より若々しくお元気なお姿です^^

12;20 出発 正暦寺に向かう
車ではあっという間に着いてしまうが、徒歩で風景を楽しみながら歩くのも良い。車では見過ごしてしまうような所も次々現れる。
「ハナキレジゾウ」という地蔵さんが祀られている。
説明版によると「この地蔵菩石仏は鎌倉時代の作で円光を背にする丸彫の立像で、第二室戸台風により地蔵堂と共に倒れ、顔肩の部分が折損しているが木彫仏に近いすぐれた技法の石仏である。毎年7月23日に地蔵祭りがある」と記されている。

ハナキレジゾウ

次に進むと「泣き笑い地蔵」があった。どちらも笑っているように見えるが縁起はわからない。
正暦寺の参道を守るお地蔵さんだろうか。

泣き笑い地蔵

日本酒発祥の地の碑をみて正暦寺に入る
13;10 正暦寺本堂着
今日は修験道の山伏達がほら貝を練習する日とかで、ほら貝を吹いてくれた。

正暦寺本堂
ほら貝で出迎え?

本堂に上がりご本尊の薬師様を拝む
この寺は最盛期には僧坊80余を数える大伽藍を誇ったが南都焼き討ちやその後の相次ぐ兵火により衰微した。本堂のある台地の広さが当時の隆盛を物語っているようだ。
階段の下には多くの石塔石仏が並びよく配置されている。メンバーの方が「これは上のほうの塔頭が廃されたとき流れてきたものを集めたものらしい」と言っておられた。

石塔石仏群

正暦寺を辞して円照寺にむかう。
来た道とは違い途中から山越えの近道を行く。短いながら今日初めての山道である。
これまで舗装道ばかりを歩いてきたので山道を歩くとホッとする。が山を越えて坂道を下りかけるとすぐに舗装道に出る。文化程度が進んでいるのかどうか知らないが、このような人家もない人も来ないような山中まで舗装する必要があるのだろうか複雑な気持である。

峠越え

途中五つ塚古墳の表示があるが場所はよく分からない。このあたりは小規模の群集墳が多いらしい。
更に進むと後水尾天皇皇女の墓への参道らしい階段がある。
ここまで来ると円照寺は近い。
円照寺は入山できないので門のあたりから中をうかがう。いつかまたつれて来て頂くことを期待しよう。

円照寺山門

14;10 いよいよフィナーレである 計画された時間通りピッタリである。
参道を下ったところで閉会式。
お疲れ様でした。歩行距離20000歩 約11キロ
以上が今回の奈良再発見サークルに参加させていただいた紀行である。
眩しいほどの晴天に恵まれ楽しい一日を過ごせたのはメンバーの日頃の行いの良さでもありました。
奈良再発見サークルの皆様、素晴らしい企画をしていただき、また大変お世話になりありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝