女たちの守る寺②―「多武峰街道に隠れ古寺を訪ね、丁石道を歩く」

開催日 平成24年5月17日(木)

 9時過ぎに参加者15名全員が桜井駅南口に集合。9時25分発談山神社行きのバスを乗り過ごすと次は10時50分になるのでバス利用の行事では時間厳守はありがたい。乗車時刻までの時間に、今回案内をお願いした地元桜井市でボランティアガイドをされている仲間のSさんと初参加の2名の方の紹介をさせていただいた。
 バスの乗客は、私たち15名のほかは「赤鳥居」で下車された3名という少なさに、地元行政からの支援でなんとか維持運営されているコミュニティバスの実態を目の当たりにする。下居(おりい)までは乗車時間13分。バスは空で談山神社に走り去る。
 バス道の県道から音羽山への分岐には、平成に制作された十一面千手観音像がはめ込まれた道標が立っている。ここからSさんを先頭に寺川を渡り一路観音寺を目指す。

石仏はめ込み道標

 寺川を渡ればすぐに上り道に入る。この辺は、かつてはウワミズザクラで小鼓胴をつくる人が多かったために「鼓の里」と呼ばれたが、ウワミズザクラの白い花穂を見ることはなかった。新緑のなかの赤紫の平戸ツツジや白色のオオデマリの花が目に鮮やかに映る。バスを降りてすぐの上りで息が上がるが、道端に立てられている楽しい標識に元気をいただく。これは地元の女性の作品とのこと。

ユーモアあふれる標識

 15分ほど歩くと百市と観音寺の分岐にあたる。ここに駐車場があり、既に10台ほどの車が止まっている。ここから先、参詣者は誰でも歩かねばならないので、数十本の杖が用意されている。ここは少し広い場所があり、Sさんが録音してこられたラジオ体操の音楽に合わせて準備体操をして体をほぐす。こうして複数の仲間と音楽に合わせてラジオ体操をするのは小学校の夏休み以来か、音楽の効用で徐々に楽しい気分が盛り上がってくる。

ラジオ体操

 全員が杖を片手に分岐点から左側の急坂を登る。観音寺まで17の笠灯籠形式の丁石についてSさんから解説をいただくが、段々息が上がって説明を聞くどころではなくなってくる。覚えているのは、「この丁石には、寄進者は田原本の十六面屋と彫られているが、田原本は国中の水運の中心であった。賤ヶ岳七本槍の一人平野長泰が田原本村を拝領したが、平野氏は米の石高の他に水運の運上金収入があって豊かだった…」ぐらいだ。あとは下を向いて1kmをただただ人の後ろに付いて登るのみ。道は傾斜がきついがモルタル舗装された一本道で迷うことはない。かつてはまず音羽山にお参りしてから多武峰に参ったようで、音羽山参詣道から右手の谷川へ降りて多武峰へ登る分岐道が通じていたという。ゆっくりと登ったので山門と天を突くお葉つき銀杏が見えてきたのは11時前であった。既に観音縁日の法話は終わったらしく、20名ほどの信者さんと住職さんが楽しげに会話を交わしておられる。
 神仏混淆の名残りか門をくぐった右側に石の手水があり、それを4体の力士が支えている。石の力士像は、野見宿禰の五輪塔のある初瀬谷出雲地区の「十二柱神社」の狛犬台座とここでしか見られないものだ。境内には九輪草が咲き乱れ、少し時季は過ぎたがシャクナゲの花も見ることができた。

九輪草
シャクナゲとお葉つき銀杏

 ご住職は「ご一緒に般若心経をあげましょう」と全員に般若心経を1枚紙に刷ったものを配って下さる。全員で般若心経をあげた後、ご住職から寺の由来をお聞きする。貞観年間の「音羽流れ」という山津浪で殆どのものが痕も残さず流されたので詳しいことは分からないが、「香法寺」や「興法寺」と書かれた文書もあり、「善法寺」とも呼ばれるという。宗旨も多武峰妙楽寺と同じ天台宗から法相宗、真言宗、無住の時代と変遷をしてきたという。現在は融通念仏宗のお寺なのに般若心経や十一面観音の真言を唱えられる理由が飲み込めた。
 当寺は檀家寺ではなく、信者寺で談山神社からの支援と地元の方々のご奉仕と遠くの信者によって維持されているとのこと。丁石や町石も「チョウいし」と重箱読みするということも教えていただいた。ご住職はこの寺に入られて24年という。若々しい笑顔と明るいお話に皆はすっかり魅了される。本堂の階に置かれた人形とご住職を撮影させていただく。この人形も参詣道に置かれた標識も同じ女性の作品という。芯がペットボトルで軽く出来ている。優れものだ。

ご住職と住職人形

 私たちは弁当を持参していたが、17日の観音縁日には「お接待」があるということで、庫裡の食堂に案内される。庫裡の玄関には、山道を歩いて信書を配達される郵便屋さんに宛てた「ありがとうございます」という感謝の言葉と御礼のジュースの缶が置かれている。ここには女性らしい細やかで優しい心遣いが溢れている。広い食堂の机には、信者の方が用意された味噌汁や山菜の料理が溢れんばかりに並んでいる。「山の水で炊いたご飯は美味しいですよ」との誘いで一口いただくと至福の味、全員が一膳をいただくことになる。さらに食後にはコーヒーが出る。これも水の違いが大きいのだろう、一味違う。眼病に霊験あらたかなのは水にホウ酸成分が含まれているからということだが、これが味にも効いているのだろうか。毎月17日の観音縁日にはこのような無償のお接待をされているのだという。急坂を登っての信者さんによる用意の大変さを思い頭が下がる。
 談山神社発桜井駅行きのバスは11時26分の次は13時26分。これに乗るために名残は尽きないが12時半にはお暇せねばならない。ご住職と尼僧さんは、私たちの姿が見えなくなるまで山門で見送って下さる。「この山道は厳しいが、庵主さんに逢うためにまた来たい」との声が女性参加者から漏れ聞こえてくる。お二人のさわやかな魅力は、冬にはマイナス8度を越えるこの厳しい山の中の精進から生まれてくるのだろう。お二人の元気な笑顔からいただいた「気」と美味しい料理とコーヒーに大満足の一行の帰路の足取りは軽く、あっという間にバス停に着く。

お二人のお見送り

 下居から聖林寺までバス停四つだが、交通量の多い県道を避けてバスに乗る。乗車時間五分、ほかの乗客は無く貸切バスだ。聖林寺は希望者だけの自由参拝。当寺は天台系の多武峰との関係が深いのに大神神社の神宮寺(平等寺、大御輪寺)との結びつきが強く真言宗であるのが面白い。参拝の方が戻られるまで、ごぼう積み石垣上部の「七つ石の出っ張り」について甲論乙駁。ガイドブックに出ていないことについて、あれこれ意見交換できるのがこういう会の良さである。
 聖林寺から北に向かうと寺川の南には「法華塔」、さらに下ると右側に笑っておられるような表情の「右片手拝み釈迦石仏」(宝永7年-1710 Sリーダ調べ)、かつては談山神社までの区間52基あったという板碑型町石が目に入る。町石の文字はほとんど判読できない。巨大な談山神社一の鳥居であるが、西端は隣接する家屋火災の影響で一部が落下している。ここから西にゆけば「メスリ山古墳」、東にゆけば露出した阿蘇ピンク石石棺を見ることができる「カブト塚古墳」だが今回は見学を割愛、等彌神社へ急ぐ。
 等彌神社着は午後3時、案内をいただいたSさんにお礼を申し上げてここで一旦は解散とする。

聖林寺門前での集合写真

 希望者10名は鳥見山に登る。片道20分の緩やかな上りだが次第に音羽山の影響を脚に感じてくる。ここのお目当ては山頂の神武天皇による「霊畤」(天皇即位後、初の大嘗会が執り行われた“まつりのにわ”―建国の聖地)とイワレビコ(後の神武天皇)より先に高天原からニギハヤヒが降臨したという「白庭」の石碑だ。当社の所在地は外山(とびやま)、バス停は「神の森」。まさしく『記紀』の世界であり、ヤマト朝廷建国期の呉越同舟の地である。
 同じ山道を等彌神社まで戻る。神武聖蹟碑にあわせて整備された道を西に向い、桜井市立図書館前の「珪化木化石」を見て寺川に沿って駅を目指す。寺川中洲の迂回水路と堰について、「水車を利用した三輪素麺の家内工場か」など意見を交わしながら歩くこと15分、駅に到着したのは4時20分であった。

文責 藤村清彦