関東の国府・国分寺を訪ねる<下野編>

関東国分寺めぐりも四回目となる今回は、10月13日(土)、栃木県南部の下野を訪ねた。地名の元となった毛野(ケヌ)氏の支配下にあった下野は、国府・国分寺・尼寺に加え三戒壇と道鏡の配流で知られる下野薬師寺が近くにある。しかし、歩くには遠くバス便もないので、自家用車2台の乗り合いで周ることになった。
 10:10栃木駅に総勢11名(内ソムリエ8人)が集合。まず下野国庁跡を目指した。

前殿が復元された下野国庁跡

 下野国庁跡は、思川沿いに広がる田畑の中に忽然と現れた。平安時代の「和名類聚抄」の「国府在都賀郡」記述から、4年間の地道な調査の結果、1979年8月に国庁跡と確定したというから新しい発見といえる。今は、「前殿(ぜんでん)」が復元されているほか、東西の「脇殿」を示すコンクリートの藤棚も作られている。
 「前殿」の柱は、手斧や槍鉋を使って削られ丹塗り、連子窓は緑青塗り、屋根は簡素な組み物ながら鬼瓦・軒の丸瓦・平瓦とも発掘品を元に丁寧に復元されている。「前殿」の後ろには本来「正殿」が配置されているらしいが、今は神社があり未発掘だそうだが、もし発見できれば、しっかり形の整った国庁が復元されるのではないか。 隣接する「下野国庁跡資料館」では、瓦など出土品と復元模型が展示されていた。

下野国分尼寺中門跡から金堂基壇を見る

 栃木市から思川を渡って下野市に入ると、姿川と挟まれた微高地に谷を挟んで東西に国分寺跡と尼寺跡が配されている。きめ細かく肥沃な黒土の台地に二寺跡がある。
 尼寺跡の脇の林の中に静かに佇む「しもつけ風土記の丘資料館」の谷中さんに二つの寺跡を案内してもらった。尼寺は南大門、中門、金堂、講堂と南北に一直線に配置されていたのだが、今は中門と金堂の礎石が確認されている。ただ中門基壇は、後年大きく削り取られ、正確な高さは不明との事。基壇の縁石も柱礎石も栃木県産の大谷石が使われていたのにはびっくりしたが、当時も大谷石が使われていたそうだ。
 尼寺跡の周りは形のきれいな「薄墨桜」の古木で囲まれ、谷中さんによると花の咲く三月末頃は見事で人気のスポットだという。

下野国分寺跡講堂基壇

 国分寺跡は、寺域を示す堀跡の砂利敷き、南門、中門、回廊、金堂、講堂、経蔵などの基壇がきれいに復元されている。谷中さんが、大谷石で敷き詰められた講堂基壇の表面が軒先あたりから外に向かって傾斜がついていることを教えてくれた。なるほど、軒先からの雫が効率よく基壇外に流れ出すよう僅かに傾斜している。先人の細かい気遣いといったところか。
 国分寺の塔といえば七重塔。中門の東に基壇が復元されていた。一辺が約18m、この基壇の上に高さ60mの塔が建っていたというのだが、想像できないでいると、谷中さんが周りの木の高さに例えて、四つ分ですよと説明してくれた。直径90cmという心柱と四天柱の礎石の様子も復元されていており、資料館には復元された心柱の下部の原寸模型が展示されている。これは見逃さないようにしたい。
 国分寺跡の南西隣には、帆立貝型前方後円墳(6世紀後半)「甲塚古墳」がこんもりとした森と共に佇んでいる。ここから出土した大型の馬の埴輪のレプリカが資料館に展示されいる。

歴史館屋上から眺めた下野薬師寺伽藍跡

 東北新幹線の自治医大駅を挟んで東に下野薬師寺跡がある。日光男体山や筑波山がよく見渡せる小高い丘の上に「下野薬師寺歴史館」があり、その屋上から下野薬師寺の全景を眺めてから見てみるのが良いかもしれない。
 下野薬師寺は、国分寺が建設される半世紀も前、7世紀末に作られ始めている。この時期は丁度、土地の豪族出身の下毛野朝臣古麻呂が中央政界で活躍した時期とも重なる。古麻呂が死んだ後、730年ごろに国の機関「下野薬師寺造寺司」が設置され官寺となり、その後日本三戒壇の一つとなるのだが、下野薬師寺はそれよりはるか前に作られていることがわかる。

六角堂での集合写真

 下野薬師寺跡の中心部には現在「安国寺」があり、中心部の発掘はまだ進んでいないようだ。しかし、回廊など周辺部の発掘は進み、北西角の回廊が一部復元されている。国庁の「前殿」と同じように丹塗りと緑青塗りが施されている。創建時の五重塔の土壇は森の中に復元されているが、再建の塔跡は県道を挟んだところに未整備のままの崩れた状態で残っている。
 土壇だけ残る東側建物跡と対になった西側建物跡あたりに、安国寺六角堂(江戸時代)が建っている。八角堂は各地にあるが六角堂は珍しい。軒下が高いので開放的な印象をうけるが、きれいな落ち着いた六角堂だ。ただ、六角堂と同じ場所に「戒壇跡」の石碑が建っているのだが、戒壇跡の位置はいまだ確定していない。元の寺域内の東北部分とあったと見られているらしいがまだ見つかっていない。この石碑は少々観光匂がしていただけない。
 次に下野薬師寺跡の南東数百メートルにある、下野薬師寺の子院と称する龍興寺を訪ねた。境内に「道鏡塚」と戒壇つながりで鑑真和上の供養碑があった。木立の塚の前に、地元の市民団体「道鏡を守る会」が「道鏡の徳を守る」と記した解説板が立っている。

龍興寺境内にある道鏡塚石碑

 更にもうひとつ道鏡つながりで、JR石橋駅から西に1km程の所にある「孝謙天皇神社」まで足を延ばした。畑の中に地味な祠と鳥居があるだけで、地元の人も分かっている人は少ないのではないかと思われた。
 というわけで、今回の国分寺めぐりも前回下総に続きてんこ盛り企画でした。全国の皆様も是非足を伸ばしてみては如何でしょうか。

関東サークルメンバー 原 英男