記紀万葉サークル12月例会

12月14日(土)参加者18名

「葛城王朝」という特殊なテーマがあったため、案内役の方は説明に苦慮されたのではないかと思います。夫々の「宮跡」の素っ気無さと、御陵として築かれた立派な石囲いの間のギャップに空々しさを感じない訳にゆきません。しかし、御所市東部の平地を行くコースは普段なかなか歩く機会が無いので、企画としては良かったのではないかと思います。
鴨都波神社は、弥生時代中期に鴨一族が耕作の神を祀ったのが創始とされます。神社下層の鴨都波遺跡を考え合せる時、鴨族という存在が実感出来たのではないでしょうか。
吉祥草寺へ向う途中、寺内町(圓照寺の寺内町が町名に)を抜けて行きました。ウダツを掲げた近世の町屋が軒を連ねていて、なかなかの趣がありました。

寺内町を歩く

吉祥草寺は役小角誕生の地に建てられたと伝えられます。しかし産湯の井戸はご愛敬でしょう。本堂の五大明王を拝観させて貰いましたが、奈良では五大明王5体が揃って祀られているお堂は少ないので、由緒など分れば良かったという気がします。

吉祥草寺門前にて

町なかを外れると冷たい風が吹き渡ってきました。暫く風の中をひたすら歩き、工事中の京奈和道の橋脚が並ぶ荒れ地を過ぎて行くと突如大きな発掘現場が現れます。古墳時代前期から後期まで続いた秋津遺跡です。大勢の人々が発掘に従事していました。夏も冬も無い発掘作業には頭が下がります。現在は竪穴式住居跡の下層にある水田耕作の状況を調査しているという説明書きが掛かっていました。

秋津遺跡の発掘現場

宮山古墳は今回で3度目になりますが、樹木が次第に生い茂り外見が分りにくくなってきました。全長約240mの大前方後円墳で、葛城地方の盟主墳です。築造は5世紀初めとされ、被葬者については周知の通り葛城襲津彦説があります。後円部にのぼると天井石が1枚外れた竪穴式石室の一部が露出しています。覗き込むと大きな縄掛突起の付いた長持形石棺が確認出来ます。この石棺材(加古川産の竜山石)と竪穴に積まれた板石(紀ノ川産の緑泥石片岩)やその運搬経路を考えた時、被葬者一族と紀ノ川・紀伊水道一帯に勢力を張った一族との緊密な関係が浮かび上がる様です。

石室に興味津々

全体を通じて寒い1日でしたが、行程の終盤には時雨れてきて金剛山に降りかかる雪が風に流され平地にも舞っていました。予定よりかなり早いバスに乗ることが出来、無事御所駅に帰着しました。駅前のカフェで熱いコーヒーを飲み一息つきました。
資料の準備や案内を担当された富田さんと河井さんには大いに感謝を致します。

文と写真 交流G記紀万葉サークル 田中昌弘