保存継承グループ 甘樫坐神社 盟神探湯神事 見学記

4月2日 明日香村の甘樫丘の北端麓、向原寺(伝豊浦の宮跡)の西隣の甘樫坐(あまかしにます)神社で盟神探湯(くがたち)神事が営まれ、保存継承グループ6名で見学に参加しました。

甘樫坐神社正面

盟神探湯とは古代の呪術的裁判法で、宗教、法律、道徳が未分化で呪術的観念が支配的な文化段階において正邪を判断するために用いられた方法です。
文字通り、対象となる者に、神に潔白を誓わせた(盟神)後、釜の中で沸騰する熱湯に手を入れさせ(探湯)、その結果により、事の正邪を判断するもので、正しき者は無事で、偽りのある者は大火傷を負うというものです。

境内の案内板

「日本書紀」には允恭天皇4年(415)に、氏姓の混乱を正すために、甘樫の神前で煮え湯の入った釜に手を入れて盟神探湯が行われたと記載されています。
平城遷都後、明日香は衰運に向かい、その釜も神社と一緒に現在地に移されましたが810年以降いつしか失われてしまいました。
現在では毎年、4月の第一日曜日に、境内の立石の前に釜を据え、嘘、偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷地区の氏子達が盟神探湯の神事を保存・継承しています。
開始前に甘樫坐神社に行くと、境内には数メートル四方にしめ縄が張られており、立石側のしめ縄近くには古い湯釜が据え置かれていて、近所の人や見学に訪れた人々がしめ縄を囲んで神事の始まりを待ち、拝殿内では既に氏子達が上がってお祓いを授かっている様子です。

据えられた古い湯釜「寛政十戊年十二月」とある。(1798年)

14:00になり、来賓の方々の挨拶終了後、甘樫坐神社の飛鳥弘文宮司が板木を鳴らして神事の始まりです。

宮司が板木を叩き神事の開始

宮司が立石の前の湯気の立つ釜に向かい、青竹の大幣で丁寧にお祓いをされます。
その釜の中に、まず白いお皿(白瓮)に盛られた米を入れ、次に大きな瓶子に入ったお神酒を注ぎ、最後に白瓮に盛られた塩を入れます。

宮司がお神酒を注ぐ

その後、白い紙を広げられ、祝詞を読み上げられます。
それから熊笹の大きな束を釜の中に深く、しっかりと浸します。
丁寧に引き上げられた熊笹の束をふんわりと包むように白い湯気が立ち上がります。

宮司による熊笹のお祓い

宮司は熊笹の束を掲げ、境内の参列者や見学者にお祓いをされます。
そしてゆっくりとすべての所作を終えられます。始終無駄な動きなく、真に美しい所作で見とれてしまいました。
さて雰囲気は変わり、飛鳥時代の衣装を着た劇団「時空」の寸劇が始まります。
隣のお寺の仏像が何者かに傷つけられた事件が発生し、3人の容疑者が一人ずつ湯釜に手を入れ裁判が行われ、犯人が判明するというストーリーで、笑いも交えて和やかに分かりやすく盟神探湯神事を再現していました。

劇団「時空」の寸劇

最後に参列者や見学者に熊笹が配られ一人ずつ順にそれを湯釜につけ、身を清めさせていただき全ての儀式が終了しました。
寸劇を見ていた氏子らしき小学生の男の子が「僕はてっきり真ん中の人が犯人と思ったけどなぁ~」と家族に話す口調が何とも愛らしく、素直でほのぼのとしていて、この子も将来この神事を保存継承してくれる人に成るのだなと感じながら帰途につきました。
道すがら、春の陽気に包まれてミモザの花が満開でした。

桜の開花はまだでしたが満開のミモザの花

私も有り難く熊笹を持ち帰らせていただき、我が家の玄関に祀らせていただいております。嘘、偽りを正し、爽やかな毎日でありますようにと。

頂いた熊笹

文  保存継承グループ 中辻安以子
写真  中辻安以子、亀田幸英