記紀万葉サークル12月例会(屋外活動)「佐保川を下る」

12月8日(土)主席者8名
当日の行程
近鉄奈良駅―法蓮橋―坂上郎女・佐保大伴邸想定エリアー「柳の歌」歌碑―長屋王・藤原麻呂邸(遠望)-奈良市役所(平城京復元模型)-田村第跡―県立図書情報館(昼食休憩)―羅城門跡―九条公園(富本銭出土地)-西市跡―近鉄九条駅

当日は、今季一番の冷え込みが予想されまた師走ということもあって、少人数でのFWとなりました。

法蓮橋にて

起点は「一条南大路」と佐保川が交わる法蓮橋となります。この辺り北側は佐保山南陵・同東陵が隣接しています。御陵の西側から法蓮中町の北側南北2町程のエリアを坂上郎女の居宅のあった「坂上の里」と想定しました。更に「大路」を西に進み、奈良高校バス停辺りからJR京都線踏切までの、「大路」を挟む南北各6町程のエリアの何処かに安麻呂~家持の佐保大伴邸を想定しました。
4-528左注、右郎女は佐保大納言の女なり。(中略)郎女は、坂上の里に家む。よりて、族氏号けて坂上郎女といへり。
6-979大伴坂上郎女、甥家持が佐保より西の宅に還帰るに与へたる歌
「わが背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家にいたるまで」
天平5年、家持16歳郎女38歳の頃の歌と推定します。

「柳の歌」歌碑

8-1433大伴坂上郎女の柳の歌
「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」

郎女は、命婦として平城宮に通っていたようです。その帰り道、春風に吹かれながら上流に上って行く郎女自身の浮き立つような気持ちが抑制的に歌われています。歌碑は、いかにもこの辺りかと思われる場所に建てられています。

平城京復元模型を見学

土曜閉庁の奈良市役所でしたが、模型の見学とトイレ休憩のため守衛さんに頼んで入れてもらいました。巨大な模型はかなり正確に作られており、各河川の流路も妥当に思えるものでした。
佐保川は市役所の東辺りでほぼ直角に南に曲がり、「二坊大路」に沿うようにして南下します。奈良時代以前から現在のような高台が横たわっていたと思われます。
「三条大路」を超え想定「二坊大路」に沿って歩くと「四条大路」まで条坊の1/2が「田村第」の跡です。東の縁は三笠中学の敷地にかかっていたようです。
県立図書情報館の前で再び佐保川縁に出ます。この辺りから南、その流路は1300年の間に大きく西へ移動したようです。七条から八条にかけては1坊以上動いたようです。

羅城門跡にて

九条大路では旧流路にかなり近づいてはいますが、まだ1町以上の乖離が見られるようです。羅城門の基壇の東端は現在の佐保川の河中に存在するそうです。

九条公園(富本銭出土地)にて

昭和60年、現在のトリム広場南端の井戸底から「飛鳥池工房」で鋳造された富本銭1枚が和同開珎・神功開宝などと共に出土しました。「西市」に隣接したこの場所で発見されたことにより、従来厭勝銭とされてきたこの銅銭が流通の用にも供した可能性が出てきたと言えます。

西市跡にて

7-1264不詳
「西の市にただ独り出でて目並べず買ひにし絹の商じこりかも」

当時は、市には絹など滅多に出るものではなかった筈です。何かの寓意が歌われているのかも知れません。
続紀 和銅5年(712)「東西二市初置」
官営の市の広さは4町(6万㎡)、現状は広大な畑地です。

文・写真:記紀万葉サークル 田中昌弘