リトライ「竜田越えと亀の瀬」ウォーク・・4/13実施

「交流グループ史跡等探訪サークル」ウォークの記  参加者21名

昨年雨のため、リトライ。とおもいきや、13日午前5時33分ごろ、兵庫県淡路島で震度6弱を記録する広範囲で地震発生。奈良県も震度4、交通機関はその余波で大混乱。集合の10時に来られる人、電車の遅延で来られない人でちょっと心配。結局10時40分に21名が揃い、ウォークを楽しみました。
万葉歌の説明また、朗詠をご指導いただいたソムリエ会員の山本春章さん(三郷町在住)には、感謝いたします。ありがとうございました。

本日のコースの説明をする公民館講座Cの田原敏明さん JR三郷駅前
コース説明を聞く参加者

JR三郷駅(10時集合)~神南備神社~龍田大社~磐瀬の杜~関地蔵堂~三室山展望台(昼食)
~里山公園・御座峰~峠八幡神社~亀ノ瀬~JR河内堅上駅・・・解散15時30分予定
 ※総行程約8キロ

関地蔵の案内版
三室山へ向かう参加メンバー
この日参加メンバーです。
コーヒータイム準備中

コーヒータイム。湯沸しなどの準備をしていただいた史跡等探訪Cの豊田敏雄さん!・・おいしかったです。
ありがとうございました。

清水谷・亀の瀬の地すべり対策防止区域
清水谷・亀の瀬の地すべり対策防止区域・・・深礎工

礫や火山灰の層の間に形成された粘土層(すべり面)が地下水などの影響を受け、地すべりが起きるといわれる。
 ※深礎工・・すべり面の下の地層まで鉄筋コンクリート製の杭(深礎)を造り、地すべりを止める工法、直径6.5m、深さ最大100mでこの一本で約6000トンの力で地すべりの動きを止めるとされる。
明治36年には、川底が隆起し、大和川氾濫。昭和6年から8年の地すべりで関西本線のトンネルが崩壊し、2つの鉄橋と3つのトンネルを造って対岸に迂回させた。この左側にその跡がわずかにみることができます。

江戸期の大和川水運について説明する田原敏明さんと聞き入るメンバー

関ヶ原の戦いのあと、慶長6年(1601)に竜田に陣屋を定めた片桐且元が領内の米を大坂に移送するため、慶長15年に平群群竜野村の安村喜右衛門に造船と亀瀬までの通船支配を命じたことに始まるとされます。
剣先船(大坂側の船)・・底が平たく先がとがっていた。(長さ17.5m、幅1.9m、最盛期には、311隻が運行)
魚梁船(大和側の船)・・剣先船より若干小さく、9枚のむしろを帆に使っていた。(70隻安村家で保有)
大和へ干鰯・油粕などの肥料や海産物を運び、大和からは、米・綿の農産物を運ぶ。
亀の瀬には、「藤井問屋」という陸路での荷継問屋があり、この藤井浜(港)より大和の各村へ牛馬の背中に荷を積んで運んでいた。藤井問屋は、藤井村の庄兵衛が1648年から1652年のころ始めたといわれている。

JR大和路線と国道25号線と大和川

現在の大和川の水量からは、思いもよらないこと。国道25号線、またJR大和路線の車窓から、当時をしのぶこともできますが、現地を歩いてぜひみなさんも体感してください。

[写真と文 交流グループ(史跡等探訪C)  小林俊夫]