史跡探訪グループ「道明寺・野中寺・葛井寺の秘仏を拝観!」

2020年10月18日

1. 近鉄道明寺駅AⅯ9:20集合
令和2年度初回の例会を、毎月18日の観音講の日にあてて、4月18日(土)に秘仏拝観を中心に、古市古墳も含めて計画しましたが、コロナで開催できませんでした。休日で18日の観音講は10月18日(日)が今年最後のチヤンスとなりました。
堂内で、仏さまを拝観する条件にマスク着用が義務付けられ、今回の参加者全員がマスクを着用しています。さらに手洗い消毒液の噴霧器も準備しました。出発時、お堂の拝観後と、昼食前に手洗いを励行しました。このような準備とコース説明を駅前でしています。

2. 道明寺天満宮の修羅
道明寺天満宮の境内に展示してある修羅のレプリカで、道明寺から国道を超えた西の三塚古墳の周濠から発掘されました。発掘された修羅は「近つ飛鳥博物館」に保存されています。大修羅は古墳の石棺を運んだと推測されています。手前の小修羅も同時に発掘されました。室町時代になりますが、京都金閣寺の池からも、このような小修羅が発見されていて、庭園造営の庭石を運んだと推定されています。修羅の形は二等辺三角形に特徴があり、戦国時代から城の石垣に使う巨大な石を運ぶ場合と異なっています。古墳の山を登るために三角形の底辺がストッパーになっていると考えられています。

3. 道明寺
道明寺十一面観音さまの拝観後、境内の木槵樹(もくげんじゅ)和名はムクロジです。謡曲「道明寺」の主題の樹木です。菅原道真さんが大乗経を5部写して、祠に収めたとことから木槵樹が生え、その黒い実で造った念珠で、念仏を百万遍唱えれば極楽の行けると、善光寺の阿弥陀さまが夢に現れるところから始まる物語です。その祠は道明寺から300mほど高野野街道を南の下ったところにあります。ここには大きな木槵樹が茂っていました。まだ赤い実をつけていましたが、もうしばらくすると、黒く硬く数珠のたまになります。この祠から東へ50mほどのところに土師寺の五重塔の心礎が残っていました。
土師寺は土師八嶋が邸を仏殿して仏を祀ったとの伝承があり、道明寺の起源となった古代の寺院です。土師氏の祖は野見宿祢に遡り四腹(四氏族)に分かれます。毛受(百舌鳥)・菅原・秋篠・古市の土師氏に分かれます。

東高野街道を南へ進み誉田八幡宮へとむかいます。

4. 野中寺
野中寺の伽藍配置は法隆寺様式ですが、搭の基壇に金堂に向いて段があり東を向いています。金堂は搭の方に向いて相対する配置となっています。礎石には心柱に添え柱があり、橘寺の搭と同じ形式です。また心柱礎石には亀の顔のような線彫りがあり、ともに特異な形をとっていいます。特に野中寺式伽藍ともいわれています。
秘仏の観音像は、三面頭飾と流れるような衣文に水玉模様の入った「隋」の仏像様式を伝えています。また框には学会で大王から天皇への時代をめぐって論争のある「天皇」銘が刻まれています。

5. 葛井寺
さすが観音講日の葛井寺さん、朱印帳をいただくのに、50mほどの人の列でできていました。やはり観音講の18日に朱印をいただくことが大事なのでしょう。
観音さんの千手が尊像を大切に守るようでもあり、光を放つようでもあり、光背のようでもあります。尊顔は東大寺の天平の塑像ように穏やかな優しい姿せした。

6. 津堂城山古墳
大和朝廷の豪族の前方後円墳のひな型といわれる貴重な前方後円墳です。この少し前に造られた古墳に明石の五色塚古墳がありで、日本書紀では神功皇后と戦う仲哀天応の皇子であった押熊王の創造といわれています。この津堂城山古墳と五色塚古墳を基準にして、古墳を考古学の時代で考えると、天皇陵の時代背景が違って見えてきます、
それにもまして、目を引くのは長持ち型石棺のレプリカが展示してありました。もちろん少し黄色かかった古代大王の石棺材の竜山石で造られていいます。大きな石棺です。このような石棺を道明寺天満宮に展示してあった修羅で運んでいたのでしょう。

史跡探訪グループ  写真 小林誠一 文 加藤 宣男