記紀万葉サークル4月例会「馬見古墳群を巡る」雑感
4月11日(土)参加者18名
記紀万葉サークル4月例会「馬見古墳めぐり」に参加した。前日からの雨は幸い上がり、天気も回復し、爽やかな空気に包まれての道行となった。
この度の例会は、1月例会の毎熊干城さんの報告「柿本人麻呂―高市皇子への挽歌」に関連しての屋外活動であった。
大和盆地の南西部に位置する馬見丘陵は数多くの古墳を擁し、その数もさることながら、築造時期も前期から後期までのものが有り、墳形も規模も様々で、丘陵一帯があたかも古墳の博物館を呈するが如くである。
今回案内された古墳は次の9つであった。奈良県内で最大規模の帆立貝式古墳の乙女山古墳、東側半面と墳頂部を築造当初の姿に復元している前方後円墳のナガレ山古墳、馬見丘陵公園の南出口から約1.5km西に位置する大型円墳の牧野古墳、馬見丘陵の中央部にある馬見古墳群で最大規模を誇る前方後円墳の巣山古墳、これも中核をなす大型前方後円墳の新木山古墳、帆立貝式古墳で築造当初の姿に復元整備された三吉石塚古墳、馬見丘陵南奥にある前方後円墳の安部山古墳、馬見古墳群の中では最初に築造されたと考えられている前方後方墳の新山古墳、馬見丘陵の最南部に位置する大型前方後円墳の築山古墳であった。その他道中で遠望した池上古墳(帆立貝式古墳)、文代山古墳(大型方墳)、コンピラ山古墳(奈良県下最大の円墳)の説明もあった。
これらの古墳を見て感じたことの一端を述べると、なるほど、復元されたナガレ山古墳は築造当初の外観がよく分かるのであるが、私など、古墳の持つ神秘に満ちた雰囲気の中で、そこに眠る古代の人に思いを馳せることを好む人間にとっては、復元古墳にはいささかの違和感がある。これは三吉石塚古墳でも同様。それはさて置きナガレ山古墳の後円部の頂上は眺望がよく、遠く東の三輪山が目に入る。そこに立つと古墳が築かれた時代のこの地域の支配者が大和東方の支配者へ燃やしたであろう対抗意識が分かるような気がした。
牧野古墳では、毎熊さんのご尽力もあって、石室内に立ち入り詳しく観察することができた。石室は大きく、高く、広く、舒明天皇の父である押坂彦人大兄の成相墓と言われる所以が感じ取れた。
今回、古墳以外では後期旧石器時代の馬見二ノ谷遺跡、竹取物語に所縁のある讃岐神社、「延喜式」神名帳広瀬郡の「於神社」に比定される於神社、高市皇子の城上の殯宮伝承地である三立岡伝承地も案内していただいた。
本日の屋外活動は毎熊さんの入念な下見や資料作成に負うところが多大であった。馬見丘陵の見事なチューリップ畑を縫っての古墳めぐりは印象深いものとなった。案内に感謝しつつ擱筆する。
(文)記紀万葉サークル 新宮卓 (写真)同 田中昌弘