記紀万葉サークル11月例会「知られざる北山辺の道」
11月14日(土)参加者23名
天気予報は最悪でしたが、集合時には雨の気配は無く先ずは幸せな気分でスタートして行きました。行程の序盤1/3は、「東大寺山堺四至図」に関連したFWでした。
新公会堂(奈良春日野国際フォーラム甍)を出て東に上った所、水谷橋手前吉城川西岸に一段低くなった場所があります。「山堺四至図」に氷池と表記されている場所が此処です。氷池の表記を見た関野貞は、「氷室および神殿、恐らくはその近傍にありしなるべし」と述べています(平城京及大内裏考)。その氷室の跡が平成20年6月に見つかりました。水谷神社東南60m程の立入禁止区域内です。ロープを跨いで入山します。遺構は、直径8~10m深さ1m前後の3基1セットです。本来3m以上の深さがあったと思われます。12世紀、若宮の神主が日記の中でこの氷室に触れた記録があります。
正規の道に戻り、二の鳥居下に出ます。少し北に寄った所が「山堺四至図」に神地と表記される場所です。関野貞の言う神殿が在ったのでしょうか。参道を西に下り、鹿苑の西側を南に入り込んで行くと御料園古墳群が現れます。竪穴構造の小円墳が14基、名残を止めています。6世紀末位の築造で、和珥系春日氏の墓域の1つに間違いないでしょう。この古墳群についての記載は「山堺四至図」にはありません。
「山堺四至図」所載の山階寺東松林廿七町(興福寺東張出し部)について、12世紀成立の「興福寺流記(宝字記云として)」には『東野廿七町、東至氷室西垣』とあり、古墳群の西方50m辺りを南北に画する氷室関係施設の垣が巡っていたのでしょう。
更に春日野の森では、8世紀の築地塀遺構が発見されています。氷室西垣の内側を巡っており、神地および付帯設備を囲っていたと思われますが、囲われた範囲がかなり南まで広がっているので、まだ謎が残ります。その築地塀遺構の南の部分を探索に行きました。高さ40~50cm、幅150cm程の、崩れた版築の遺構が直線的に数10mに渡って続き、所々方々に布目瓦の破片が見られます。参加の皆さんも記念に1枚ずつ採取してゆかれたようです。
行程の中盤1/3は、古市地区です。ワニ族時代の前期古墳を含む古市古墳群を過ぎると、旧古市村からの墓地があります。ここに平城京研究の先駆者北浦定政の墓所があります。苔むした墓碑には、「北浦義助藤原定政」とありました。参加者の皆さん、一様に感慨に浸ったのではないでしょうか。因みに墓地の一画、30基ばかりは北浦家類代の墓となっています。
墓地を出て、旧道を南に進むと定政が勤務した藤堂蕃古市奉行所跡もあります。やがて視界が開け、東に丘陵(現東市小学校とその南の丘)を望むのですが、ここに16世紀の梟雄古市氏の本城がありました。伝わっている絵図によると、2重の堀に囲まれた本格的な城郭で東南の奥には4層の天守が見えます。多聞城より3年早く築かれたそうですが、天正7年(1579)筒井順慶のために落城してしまいました。
終盤の1/3は藤原・山地区で、嶋田神社・崇道天皇陵以外これと言った見どころは在りません。崇道天皇陵は、北浦定政の探索によって治定を受けた経緯があるようで、早良親王が淡路から移葬された場所であるかは疑問視する向きもあるようです。崇道天皇陵に到着した頃から突如激しい雨に見舞われ、予定していた集合写真を撮ることも出来ず、ほうほうの体で帰途につきました。従って、今回は集合写真をお見せすることは出来ません。
(文)・(写真)記紀万葉サークル 田中昌弘