史跡探訪サークル「矢田寺のあじさいを楽しみ、大空の守護神に参詣」

史跡探訪グループは6月12日水曜日、総勢15名で矢田寺と矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)を訪れました。

矢田寺では、色とりどりのあじさいの花を楽しみ、様々なお地蔵様にお会いしました。
矢田坐久志玉比古神社は、櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)という神様が、天磐船(あめのいわふね)に乗って天からこの地に降り立ったという故事から大空の守護神として崇められている神社です。訪れる人は少なく、静かな雰囲気の中で古代神話の世界に浸りました。
梅雨入り前のよく晴れた暑い一日でしたが、多くの出会いと美味しい食事で楽しい一日を過ごしました。

出発前説明

バスを降りた所の日陰で、今日の行程と矢田寺は矢田丘陵の中腹にあって長い石段が続くので休みながらゆっくり登ることや暑さに注意して水分補給を忘れないことなどの注意事項の説明がありました。

矢田寺 山門前にて

矢田寺の正式名称は「矢田山 金剛山寺(やたさん こんごうせんじ)」。飛鳥時代末に天武天皇の勅願により智通僧正が創建したのが始まり、現在は、高野山真言宗別格本山。大門坊、北僧房、南僧房、念佛院と4つの塔頭から成り立っており、これらを総称して矢田寺と呼んでいます。日本の地蔵信仰発祥地の一か所といわれ、通称「矢田の地蔵さん」の名前で親しまれています。

山門に来る途中で「出迎え地蔵」に出会いました。右手に錫杖を持たない矢田型地蔵です。各地のお地蔵様の多くは、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持たれているスタイルなのですが、矢田寺のお地蔵様は、そのほとんどが右手の親指と人差し指を合わせた阿弥陀様と同じ来迎印を結ぶ独特のもので、阿弥陀如来と地蔵菩薩の両方の功徳を備えているありがたいお地蔵さまです。

見送り地蔵

山門から長く続く石段をしばらく登って、振り返ると眼下に奈良盆地が広がっていました。ここに東向きに立っているお地蔵様が「見送り地蔵」です。

矢田地蔵縁起には次のような説明があります。          
閻魔大王の案内で地獄を見た満慶上人は、地獄で苦しむ 衆生を助ける地蔵菩薩に出会い、地蔵菩薩から「現世に戻ったら自分に似た地蔵菩薩像を作って拝むことで、自分と縁を結びなさい。そうすれば 地獄の衆生を救ってあげられます」と伝えられました。満慶上人は矢田寺に戻ると、直ちに仏師をして地獄におられた地蔵菩薩像を彫らせましたが、幾度彫っても、その姿を再現することができず、神仏に祈願する毎日が空しく過ぎ去るばかりでした。
ある日突然4人の翁が眼前に現れ、三日三晩で地獄で出会った地蔵菩薩そのままの姿を完成させ、驚嘆する満慶上人に「我らは仏法守護の神である」と告げると、五色の雲に乗って春日山へ飛び去りました。
そして、この尊像が矢田寺の本尊となりました。本尊地蔵菩薩立像を彫り上げた春日四神が春日山に帰られるのをお見送りしているので「見送り地蔵」と言われています。

味噌なめ地蔵

その昔、家で造った味噌の味が悪くなって困っていた農婦が、夢の中でお地蔵様のお告げを聞き、翌朝持参した味噌をお地蔵さまの口許に塗ったところ、家の味噌は見違えるようになっていたそうです。
これを伝え聞いた里人たちは、新しい味噌を作ると、このお地蔵さまの口許に塗りにくるようになり「味噌なめ地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

本堂前にて

本堂は江戸時代の建築(奈良県指定文化財)。6月は本堂特別拝観の期間となっており、堂内に入ると、中央の厨子内には本尊の木造地蔵菩薩立像(平安時代・重要文化財)、当初の本尊である木造十一面観音立像(奈良時代、重要文化財)と吉祥天立像(室町時代 大和郡山市指定文化財)三尊が安置され、左右に二天像(奈良時代 重要文化財)が配置されていました。
また裏手には試地蔵菩薩立像(平安~鎌倉時代 重要文化財)や阿弥陀如来坐像(平安時代 重要文化財)が安置され、絹本著色矢田寺地蔵縁起絵巻(レプリカ)の展示や色鮮やかな十六羅漢の襖絵なども見学することができました.

北僧房で頂いた精進料理「あじさい御膳」

まず全員で自己紹介、その後、炊き込みご飯、ゴマ豆腐、揚げたての天ぷらなどが盛られた美味しい精進料理に話も弾み、楽しいひと時を過ごしました。

あじさい見本園とあじさい庭園

昼食が終わった後は、自由散策の時間。本堂に向かって参道を進むと右手にあじさい見本園があります。ここには、多くの種類のあじさいが植えられ、ブルーキング、ヒメアジサイ、ヤマアジサイ、カシワバアジサイ、ガクアジサイなど花の名前が表示されています。
また、参道左手のあじさい庭園や広い境内のあちこちには、青、紫、ピンク、白、色とりどりのあじさいの花が咲き、私たちの目を楽しませてくれました。

矢田寺閻魔堂 特別開扉のしおり

本堂の裏手にある閻魔堂は、6月は特別開扉の期間で、中を見ると中央にひときわ大きな閻魔大王がおられ、両脇には残りの十王(秦広王、初江王、などなど)がおられました。
死者の生前の行いを裁き、六道の行先を決める裁判の場面で活躍する奪衣婆(だつえば)や業の秤(ごうのはかり)、浄玻璃(じょうはり)の鏡などを見ながら、これらの道具を使って裁判が進む様子を語り部の女性がわかりやすく解説してくれました。
閻魔大王は、亡くなった人を裁く厳しい裁判官であり、地蔵菩薩は人を救う弁護士のような存在だということです。

矢田坐久志玉比古神社 注連縄

櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)と御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)を祭神とする延喜式内大社。結界を作る注連縄は、毎年1月8日に特殊神事「綱掛祭り」で取り替えられます。

矢田坐久玉比古神社 楼門前にて

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)では、古代の豪族物部氏の祖櫛玉饒速日命が、天磐船(あめのいわふね)にのって高天原から降臨したとしています。
この故事から、当神社では櫛玉饒速日命を大空の守護神と崇め、祀っています。楼門には木製のプロペラが奉納され、毎年9月20日には航空祭が催されています。

二之矢塚

櫛玉饒速日命が、降臨前に天空から射た三本の矢のうち、二本目の矢が落ちたところがこの社地であることを示す石碑です。
このことから、当神社は「矢落神社」とも言われています。一之矢塚はここから南に500m、三之矢塚は北西に500m離れた場所にありそこには石碑が立っています。三本の矢がすべてこの地に落ち、「矢田」の地名の由来となっています。

拝殿前にて

拝殿には「矢落大明神」の額が掲げられていました。拝殿の奥には、一間社で檜皮葺の春日造の本殿と末社八幡神社があり、ともに国の重要文化財。室町時代初期の築造と考えられています。
当神社の神紋「二本の違い矢」が、拝殿の前にある大正天皇の即位を祝う青銅馬の腹部の紋や楼門の軒丸瓦の模様に使われています。

史跡探訪サークルはこれからも魅力ある楽しい史跡巡りを計画したいと考えております。11月にはコスモスを楽しみながら斑鳩三塔を巡る予定にしております。いちど史跡探訪サークルの催しに顔を出してみてください。きっと楽しい出会いがあると思います。

史跡探訪サークル    文書作成者 新田 隆司  写真撮影者 松浦 文子