「隠れた名刹の海住山寺・聖武天皇恭仁宮跡を訪ねて」感想記

11/3(祝日)実施・・・参加者15名

コース・・・JR加茂駅→御霊神社・燈明寺→岡田鴨神社→海住山寺→木津川市文化財整理保管センター恭仁分室(恭仁京のビデオ鑑賞)→恭仁宮(山城国分寺)跡→JR加茂駅

昨年は、大雨のため、あえなく中止、今年は、そのリベンジ。幸いにも晴天の秋晴れとなりました。
秋の特別開扉に合わせての例会。  加藤さんの号令に合わせて、ウォーキング前のストレッチ。総行程は約9㎞です。

ウォーキング前のストレッチ

まず、燈明寺を訪れる。旧燈明寺は寺伝によると聖武天皇の勅願により行基が開創したとされ、建武年間の争乱で廃絶した。その後天台宗の忍禅が復興。近代に豪商が買収し、本堂と三重塔は横浜市の三渓園に移築され現存する。燈明寺は御霊神社境内の一角にあり、その御霊神社は燈明寺の鎮守社として奈良氷室神社の社殿を移したと伝えられる。祭神に火雷神[ほのいかづちのかみ]として菅原道真が祀られている。

旧燈明寺の仏さまの収蔵庫

通常非公開の収蔵庫の「千手観音立像」「十一面観音立像」「不空羂索観音立像」「聖観音立像」「馬頭観音立像」(いずれも鎌倉時代の後期)も拝観することができました。地元ボランティアの方々の文化財を守る姿勢には、頭が下がる思いです。その後、現行寺十一面観音坐像を拝観に行くが、あえなく収蔵庫の改修で残念。(この寺は、無住で、海住山寺が管理とのこと。またの機会に拝観したいものである。) 次に祭神を賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とする岡田鴨神社に行く。「山代風土記」逸文によると、賀茂建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神武東遷の際に、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が即ち賀茂建角身命の化身で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、賀茂建角身命は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田の鴨に移られ、その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御世と伝える。岡田の由来は、かつて賀茂村と恭仁京のあった瓶原(みかのはら)村を岡田と称したらしい。

岡田鴨神社(右)・天満宮(左)

続いて、急な車道をハアハアしながら、やっと海住山寺の山門にたどりつく。『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の小倉百人一首第27番 中納言兼輔の歌で知られる瓶原を一望におさめる地に建つ海住山寺。創建は天平年間と伝わり、解脱上人貞慶により中興される。通常非公開の国宝五重塔(初層)内部、本坊庭園、文殊堂内部を拝観させていただいた。

海住山寺五重塔前での参加メンバー

恭仁の宮をみおろした海住山寺をくだって、聖武天皇恭仁宮跡をめざす。木津川市文化財保管センター恭仁分室で約15分のビデオ鑑賞。(このセンターは地元ボランティアの方々で維持管理をされているとのこと。)この後、740年、聖武天皇により平城京から遷都された恭仁京。恭仁宮跡が立地する瓶原地区は、京都府最南端に位置する木津川市加茂町にある。第一次平城宮の大極殿を移築した恭仁宮大極殿跡、後に山城国分寺となって建造された塔跡を訪ねた。加藤宣男さんから「国分寺塔の礎石に見る凹型と凸型の違い」の詳細な説明を受けました。(よくわかりました!)

礎石の説明する加藤さんと参加メンバー

頻発する反乱や疫病の蔓延する社会不安のなかで聖武天皇5年間の彷徨はなぜなのだろうか? 741年に恭仁京遷都、742年に紫香楽宮行幸、743年大仏建立の詔、恭仁京へ還幸。744年難波宮へ、745年に紫香楽宮遷都そして恭仁京還幸と平城京へ還都。皇族と藤原氏の頂点に君臨する二つの血筋を継ぐ聖武天皇は、常に両者のはざまで揺れうごいたのであろうか。
天武朝の祖で強い意志と実行力をもった曽祖父の政権獲得ルートをたどることで天皇としての自分を取り戻そうとしたのかもしれない。などと思いながら、恭仁宮跡からJR加茂駅まで帰ってきました。リベンジ! こんなにも素晴らしい1日でした。

文と写真:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 小林俊夫