史跡探訪サークル2025年秋の散策 山の辺の道「奈良道」界隈・非公開かくれ仏を巡る 

史跡探訪サークルは11月25日(火)、参加人数20名で、「山の辺の道「奈良道」界隈・非公開かくれ仏を巡る」と銘打ち史跡探訪ツアーを実施しました。名も余り知られてなく、場所もやや不明な探訪ツアーで、スタートからミステリアスな期待感で一杯です。

小雨が少し、ばらつく様相のなか、鹿野園町バス停に到着。今回、非公開かくれ仏等を、ご案内をいただく講師の方の出迎えを受け鹿野園町集会所に向かいます。天気が良ければ、三笠山、春日山、高円山の景色が綺麗なんですが今日は、ホワイトアウト状態です。
春日山から南に延びる、奈良東山中の山麓は和邇(わに)氏(後の春日氏)の本拠地で、春日山の西麓にあたる地域に横井廃寺(飛鳥時代に造営の古代寺院)柿本廃寺(しほんはいじ)、塔の宮廃寺(山町帯解、白鳳時代)、ドドコロ廃寺、古市廃寺、岩淵廃寺など、今は廃寺となった古代寺院が密集する場所としても知られています。

集会所に入り、今回見学する寺院等の解説をじっくりと拝聴したのち、この集会所にお祀りされている、仏像マニア垂涎の仏様とのご対面です。(令和4年(2022)奈良市指定文化財に指定)。

鹿野園町集会所での座学風景

ヒノキの寄木造りの木造十一面観音立像。明治時代初めごろに廃寺となった鹿野園町の梵福寺(ぼんぷくじ)の本尊と伝わります。(「大和誌」では岩淵寺の子院との記載あり)。像高は100cm足らずですが、右手に錫杖を執り、左手に蓮華茎を挿した水瓶を握る長谷寺式十一面観音菩薩です。頭上にいただく十面の配列は乱れていますが、後補(後世の補修)は一面だけです。眉や唇に彩色するほか素地仕上げです。白毫と眼には水晶がはめられています。眉と眼が大きく、しかも吊り上がっており、精悍なお顔です。撫で肩で上半身が少し長め、いわゆる胴長ですが、腰を左にひねって左足を軸足にして両足先を外に開いてお立ちで、安定感のある表現です。横から見ると全身が少し前に傾斜しているのが特徴です。
作風は、室町時代後期の椿井仏師舜慶(しゅんけい)作の橿原市慈明寺十一面観音菩薩立像とよく似ています。本像は舜慶もしくはその工房の作と推測されています。室町時代の奈良で慶派から独立し、興福寺に所属する椿井仏師(奈良市椿井町付近)が活躍、舜慶は椿井仏師のなかで傑出した仏師の一人です。

十一面観音立像

椿井仏師と、この先拝見出来る宿院仏師についての詳細の説明を受け、少しは理解出来ました。

降り止まない雨の中、次に北浦定政墓所に向かいます。
平城宮保存の先駆者、陵墓の整備に尽くされた北浦義助藤原定政。手前に顕彰碑が建ち、四基の墓石が並び立ち、最も右端が定政の墓石。正面に、一心院遊山定政居士、右側面に、 明治四年末年正月七日没 北浦義助藤原定政墓 年五十歳、 背面に、 こしかたのくひのあまりに/ゆく末のはてなき夢を みるがくるしさ こは定政ぬしのよみおき玉ひしを書 八十一蓮月
定政の墓石の左には、妻女満千の墓が並んで立ち、「海心院智光恵観大姉」「北浦定政室満千女」「明治十五年五月廿九日没」と刻字されています。さらにその左にはやや大きく子息の義十郎の墓が並び立ちます。(正八位とあります)。この人が棚田嘉十郎に父定政が残した資料を渡したことが、嘉十郎の平城宮跡保存活動に大きく踏み出すきっかけとなったといわれます。

続いてここから南の方向にある御前原石立命神社(みさきはらのいわたちのみこと)に向かいます。道は、市道から一本西に入っただけですが、旧街道といった風情の道を進んでいきます。
しばらく進むと旧道の左側崖のあたりにお参りする神社がご鎮座されておられます。「延喜式」神明帳には、式内社「御前社石立命神社」「御前社原石立命神社」の二通りの表記が伝わりますが、現在の当社社名は「御前原石立命神社」となっています。詳しい由緒は不明ですが石立命という神名からもとは磐座を中心とした山の神の信仰から始まったと推定されます。社殿は三棟で西向きに並び、中央の本殿にはご祭神の「御前原石立命」、右側は御霊神社でご祭神は「崇道天皇こと早良親王」、左側(北側)は春日神社の「天児屋根命」、が鎮座されています。鳥居前に配置されている砂岩製の狛犬は、美しい歯並びが特徴で印象的です。

この神社から、市道に上り、東市小学校内にある古市城跡に向かいます。古市城は、15世紀後半から16世紀初頭に至る古市氏の居城。東の山塊から西へ派生した台地の西端付近に築かれていました。現在東市小学校となっている付近が本丸跡といわれ、北に二の丸があったと推測されています。古市城跡の石碑は、この小学校の敷地内にあり、同小学校の許可を貰わないと見ることが出来ません。しかし、市道に面した学校のグランド横の坂道を少し登ると、石碑の先端部分だけですが見ることが出来ます。遺構は余り残っておらず、南側の池のある窪地は堀跡です。

古市城跡石碑

古市城跡から、西の方向に10分程進んで行くと横井町が管理されているお堂があります。前身は、飛鳥時代に小野妹子が旅の安全祈願の為に建立したと伝わる満願寺薬師堂に到着。横井廃寺(小野寺)跡とも言われます。
お迎えいただいた住職のご厚意で、お堂横の集会所を休息場所として提供いただき、また、温かいお茶のおもてなしを受け、雨の中を歩いてきた体が、喜んでいます。
ご本尊は、像高40cmほどの薬師如来坐像で、永禄五年(1562)に宿院仏師・源三郎によって造られた木造・素地作りの仏像です。宿院仏師は、室町時代後期に興福寺近くの宿院町に、正統の仏師系図に載らぬ番匠(大工関係)出身の仏師集団の仏師工房です。安定感のある座像で、撫で肩の大柄な体型。背中が前かがみ(猫背)、顔つきは大きな吊り上がった目で、目力があり、下唇が厚いなど、宿院仏師・源三郎独特の表現がうかがえます。本尊頭部内・光背裏面・台座内にその名が記載されています。昭和60年(1985)奈良市指定文化財に指定。

満願寺
満願寺薬師如来坐像

昼食後、元きた道に戻り藤原町にある藤原観音堂を目指します。
前方に白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の鳥居が見えますが、神社の手前の細い道の奥にひっそりと隠れた観音堂があります。観音堂の扉枠内越しに、十一面観音立像を見ることが出来ます。仏像の調査によると、像内の銘記の有無は確認できないものの方座裏面に落書きがあり、「源」と判読、作風の上から宿院仏師の作と推定されています。本像は、長谷寺式十一面観音、素木仕上げで室町時代(16世紀)の宿院仏師源次の作に似ているとのことです。ここは、案内をしてもらわないと行きつけない場所、本当に隠れた仏様を拝仏出来るスポットと言えます。

藤原観音堂
十一面観音立像

高揚した気分で、先ほどの白山比咩神社に向かいます。日本三名山のひとつ「白山」を信仰する、石川県の白山神社のご祭神、白山比米神(しらやまひめのかみ)=菊理媛神(きくりひめのかみ)を分祀して祀るとあります。菊理媛大神は、夫婦の神であるイザナギノミコトとイザナミノミコトの仲裁をした神話に登場、縁結び、夫婦円満、家内安全の神様として知られています。物事をまとめる「くくる」という意味から「和合の神」としても崇敬されておりまた、菊理媛は平穏浄化を司る神とされます。この地域では「梨」を作らないという伝承があります。白山神社の神が「梨」を食べて、歯を痛めたからという古老の話しが伝わります。

白山比咩神社

ここから、山の辺の道に入り天理方面へ向かいます。この道に沿って歩くと、南角に嶋田神社が見えてきます。神武天皇の皇子である「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」と崇道天皇(早良親王)が祀られています。早良親王の霊を鎮めるために建立されたのが崇道天皇社と八島寺です。明治18年(1885)頃、現八島陵の地を崇道天皇の御陵として整備することが決りました。翌年、古くから八嶋の地の氏神であった嶋田神社が現在の地に移築され、崇道天皇社の御神体と社殿が下付され、両神社の二神が合祀されたのです。嶋田神社こそ、淡路島から、ご分霊された崇道天皇(早良親王)をお祀りしている神社かも知れません。更に「崇道天皇八島陵」として整備の際、当初の崇道天皇社を守護するために建立された八島寺は廃され、その旧仏は現八島公民館にご安置されています。この辺りには崇道天皇と所縁のある所が多く残り、御霊信仰が根付いているのでしょうか。

嶋田神社

では、御霊信仰の始まりともいえるご本人が埋葬されている崇道天皇八島陵でこの事実を確かめましょう。
早良親王は長岡京造営司を暗殺した罪で捕らわれ、皇太子を廃されます。淡路島に配流される途中、無実を訴え憤死し淡路島に葬られました。この後、天災・地災・旱魃・疫病が起こり、天皇周辺にも不吉なことが続いたため、同親王の祟りと恐れられました。そこで、崇道天皇の号を追尊、鎮魂を図り、淡路島で埋葬されていた遺骨を分骨し奈良八島の地に改葬されました。その先の出来事は嶋田神社に記載の通りです。崇道天皇陵は、その形状は楕円形上の円墳なんですが、御陵に似つかわしくありません。なぜか、四方は白い土壁で囲まれており、まるで非業の死を遂げた親王の怨念を土壁で封じ込めているようにも見えます。

集合写真

御陵の前に巨石があります。言い伝えでは、早良親王が淡路島での死に際し、石を九つ投げ、落ちたところに葬って欲しいと告げました。そのうち八つがこの地で見つかり陵が造営されました。八島の地名の由来となったとも。しかし実際は横穴式石室の天井石が露出した古墳。取り除くと祟りがあると伝わりそのままにされているようです。

八ツ石

今日の史跡探訪は、これで終わりとなります。天候には恵まれませんでしたがご満足されましたでしょうか。
講師の先生のご尽力・ご協力が、無ければガイドブックにも掲載されていない今回の隠れた仏像を見る事が出来ず、また隠された歴史秘話など拝聴出来ませんでした。本当に感謝申し上げます。
今日一日、この辺りを巡り、高円山周辺には名のある仏師達がお造りになられた仏像などが、現在もこの地域の方々により、受け継がれ大切にお祀りされているお姿に敬意を表します。まだまだ知られていない多くの隠れスポットがありそうです。機会があれば探索してみたいと思っております。

史跡探訪サークルは、これからも魅力ある楽しい史跡巡りを計画したいと考えております。きっと楽しい出会いがあると思います。

史跡探訪サークル 文章作成者 石川雅司  写真撮影者 石川雅司