「紅葉の浄瑠璃寺・岩船寺・当尾の石仏を訪ねる」感想記

11/17(日)実施・・・参加者21名

紅葉を求めた史跡等探訪サークル主催のウォーキング当日は、絶好のウォーキング日和となりました。
コースは、近鉄奈良駅バス停→浄瑠璃寺口→ツジドウの焼け仏→浄瑠璃寺→薮中磨崖仏→愛宕灯篭→笑い仏→みろくの辻磨崖仏→岩船寺→大門阿弥陀磨崖仏→浄瑠璃寺口→近鉄奈良駅バス停
南都の仏教が変貌し、藤原の貴族文化に併合されつつも、色濃く南都の仏教を伽藍に残し、室町・鎌倉で大衆の祈りと信仰へと展開してゆく仏教を今に映す「当尾(とうの)の里の石仏」を巡りながらの一日となりました。

ウォーキング前のストレッチ

全行程10キロほどの行程ですが、全員でストレッチして、体を軽やかにして準備OK。イザ出発!!

西小五輪塔(鎌倉時代)

浄瑠璃寺へ登ってゆく途中、西小地区墓地の入口に反花座(かえりばなざ)を備えた大和系五輪塔の代表作で、重要文化財の五輪塔(鎌倉時代)が二基あります。正面から向かって左は台座に複弁反花座の側面に「格挫間(こうざま)」と呼ばれる装飾あるとの説明で、それを探すメンバー。

紅葉の浄瑠璃寺の山門

「最初、僕たちはそのなんの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危うく其処を通りこしそうになった。」『浄瑠璃寺の春』(大和路・信濃路:堀辰雄)
「山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や壁や松の木など野趣に充ちた風情をながめた時に、私はそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。」『浄瑠璃寺への道(古寺巡礼:和辻哲郎)』
この浄瑠璃寺の門をくぐり、ほんの少しだけ進むと、さほど広くない庭園に、東方から西方へと渡る広大な浄土世界が表現されていました。

紅葉の中の浄瑠璃寺の三重塔

浄瑠璃寺住職の法話より
・阿弥陀堂には九体の阿弥陀さまがいらっしゃいます。極楽には上品上生から中品中生をへて下品下生まで九つの極楽の階層があって、この世の行いによって往生する階層が決まってきます。しかしこの世の自分は、どの階層に往生するか分からないので、間違った階層の阿弥陀さまをお祈りしてしまうかもしれません。ですから一体ずつ九体の阿弥陀さまをお祈りすることも良いのですが、東にある三重塔から阿弥陀堂に向かってお祈りをすれば、九体すべてが一度にお祈りできて、すべての阿弥陀さまにお祈りができます。・・・・・・なーるほど、ガッテン!!
・本堂には不動明王さまがいらっしゃいます。向かって右側が、やさしい「衿羯羅童子」左に知恵の杖を持った力強い「制多迦童子」との三尊です。今日は「やさしさ」が足りないなァー」と思うときは右の「衿羯羅童子」を、「力強さ」が足りないなァーと思うときは左の「制多迦童子」を丁寧にお参りしてください。それでも何か足りないなァーと思う時は、両方丁寧にお参りしてください。・・・・やさしさも、力強さも足りネーなァー、両方共お祈りしョーと!
・吉祥天女さんは、最初からお願いごとをするのでなく、一度懺悔をしてから、お願い事をすると良く聞いていただけるので、懺悔からお祈りしてください。・・・・嫁さんはこんな美人ではないけれど、嫁さんに懺悔するようで嫌だなァー・・・お祈り、知らぬ顔して行こうか?

岩船阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏・鎌倉時代)

当尾石仏群で最も有名な石仏です。伊行末の子孫、伊末行が作者です。脇侍に蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩は、来迎阿弥陀図を思わせる構図です。阿弥陀さまは彫りが深く、陰影がハッキリして本当に微笑んで、いらっしゃいます。
石仏は、こけ蒸したしジメジメした暗いところに座することが多いのに、この笑い仏さまは燦々と降り注ぐ日光のもとに座して笑っていらっしゃって当尾の石仏全体の印象を、とても明るくしています。

本日参加のメンバー写真・・岩船寺本堂横から

岩船寺住職の法話より
・本尊の阿弥陀如来さんは納衣に朱が残っており、珍しい朱の納衣を召しておられます。
・本堂右奥の白象に座しておられる普賢菩薩さんは三重塔の本尊でしたが、今は本堂に移って頂いています。
・本日は天気も良いので特別に三重塔を開扉していますので、参拝していただけます。

岩船寺の三重塔の内部壁画

来迎壁の背面・五大明王像と板戸・羅刹天・水天が描かれていいますが、これは建立当初の文様・色彩及び壁画が明らかになり平成十五年に復元されたものです。チベット仏教曼荼羅のように見えました。

岩船不動明王磨崖仏(一願不動)

たった一つだけ、一生懸命お願いすれば、叶えてくれるという一願不動さん。皆さん、解説者はほったらかしで、不動明王さんを見上げて「ねがい」をかけているようです、はたして何を願っているのでしょか?
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浄瑠璃寺は藤原時代を代表する宇治の平等院のような華麗さはなく、むしろ円成寺のような山村に、王朝貴族が競って創建した九体寺を唯一残した寺である。当尾の里の寺院は、興福寺の末寺として、僧侶が阿弥陀如来を中心に石仏や磨崖仏を刻み修行の場とした。その石仏が大衆信仰に結びつき、さらに地蔵を中心とした石仏や板碑や墓碑が残った。無形の文化として江戸末期に岩船寺の白山神社に見える「おかげ参り」の祭りも残った。いわば奈良時代を源流として、藤原時代に思いを寄せ、鎌倉から江戸時代まで、高きから低きへ、仏教文化がゆるやかに流れてゆき、大衆化してゆくさまを垣間見せてくれる思いにとらわれ、いにしえを偲んだよき日でした。

文:交流G史跡等探訪サークル 加藤宣男   写真:同 小林俊夫