記紀万葉サークル5月例会「蘇我氏ゆかりの地を巡る」
5月13日(土) 参加者24名
5月13日、夜半からの雨が残る中、2月に行われる予定だった例会が催行されました。雨をものともしない熱心な参加者が24名、橿原神宮前駅東口に集合されていました。案内をしていただいたのは、いつもエネルギッシュな富田良一さんです。
今回は、表題の通り、蘇我氏に関連する場所を尋ねるのですが、蘇我氏4代の家だけでも、稲目が「小墾田の家,向原の家、軽の曲殿」馬子が「石川の邸宅,槻曲の家、嶋の家」蝦夷が「豊浦の家、畝傍の家、甘樫の丘・上の宮門」入鹿が「甘樫の丘・谷の宮門」など日本書紀に記載されているだけでも、すごい数です。
集合場所がすでに橿原遺跡・丈六遺跡に含まれていて、蘇我氏の領域の真っただ中に足を踏み入れた感がします。
先ず向かったのは、厩坂宮・厩坂寺伝承地です。コンビニの脇の細いあぜ道を進むと大きな土壇が残されており、ここに大寺が建っていたのかと納得。
厩坂寺は興福寺の前身寺院ですが、馬子の娘の「法提郎娘媛」を妃にしていた34代舒明天皇が半年ほど宮として滞在し、後に寺としたということです。
次は、「本明寺」という大軽町の集落の中にひっそりとたたずむ小さなお寺を尋ねました。稲目の「軽の曲殿」また馬子が仏殿を造り、<仏法の始まり>と言われる「石川の邸宅」の跡の伝承地です。
それからまた迷子になりそうな、集落の細い道を進み、着いた所は「法綸寺」と、隣接する「春日神社」です。
ここが、「軽寺」の跡地と考えられています。日本書紀に「檜隈寺、軽寺、大窪寺それぞれに30年を期限として寄進する」との記事が見え相当の大寺であったことがうかがえます。また、境内には15代応神天皇の「軽島豊明宮跡」の伝承地であるという石碑が建っていました。古市古墳群の中にある、応神天皇陵とされる巨大古墳のことが思い起こされ、ひっそりと建つ石碑が対照的に思えました。
次に案内されたのは、最後の巨大前方後円墳と言われる「五条野丸山古墳」です。
墳長310メートルは、もちろん奈良県1位、全国6位の大きさです。
被葬者は「蘇我稲目」、「稲目の娘であり、欽明天皇の妃の堅塩媛」、「欽明天皇」等が有力視されています。
前方部から東の方角にある、推古天皇と竹田皇子の墓といわれる「植山古墳」を遠望しました。近く公園として公開される予定だそうです。二つの石室があり、家型石棺が置かれていたものと思われます。推古天皇は後に太子町の磯長谷に改葬されました。推古天皇は欽明天皇と堅塩媛の娘で稲目の孫にあたります。
そして、蘇我氏の祖先ともいうべき「竹内宿祢の祖父」とされる、彦太忍信命(ひこふつおしのみこと)の父である8代孝元天皇の陵(剣池嶋上陵)を尋ねました。
陵そのものは文久の修陵時に3つの古墳を一つにしたものです。
竹内宿祢の後裔として、古代地方豪族の、蘇我氏、巨勢氏、平群氏などの名が挙げられています。
剣池を過ぎ、和田廃寺を目指します。丸いこんもりとした、何の変哲もない
塚がそれです。はじめは馬子が建立した寺の塔跡と思われていましたが出土した軒丸瓦が7世紀後半のもので、時代が合わず馬子建立の寺ではないことがわかりました。塚も1辺12.2メートルの基壇の塔跡で「葛城寺」とみる説が有力になっています。「聖徳太子伝暦」に「賜蘇我葛木臣」の記述があり蘇我氏の一族に葛木氏がおり、その氏寺ではないかと考えられています。
次に向かうのは、「古宮土壇」です。当初は小墾田宮跡伝承地とされていましたが、雷丘東方遺跡で「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土したことで、小墾田宮ではないことが明らかになっています。発掘調査の際には飛鳥時代前半の掘立柱建物や庭園の跡が見つかり、蘇我氏の邸宅跡ではないかと考えられるようになっています。土壇も調査で中世のものと判明しています。
いよいよ飛鳥の中心部に入っていきます。稲目が「向原の家」を仏堂とし、592年には、推古天皇の宮となり、ここに即位をしました。そののち、603年に推古天皇が小墾田宮に移り、豊浦寺になったと思われます。現在、向原寺が法灯をつないでおり、飛鳥時代の遺構を見ることができます。また、蝦夷は「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」と呼ばれており、このあたりに邸宅を構えていたのではないかと思われています。
そして、古代の裁判である「盟神探湯(くがたち)」神事が行われる甘樫坐神社に立ち寄り、今日の昼食場所の甘樫丘休憩所に到着です。
さて、午後からは甘樫丘の遊歩道を展望台まで登ります。雨も上がり、雨に濡れた木々がしっとりと新緑に輝いて本当に美しく、爽やかな空気を思い切り吸って、次の目的地に向かいます。
展望台からは東の足下に飛鳥寺、入鹿の首塚、右に視線を向けると、飛鳥京跡、さらに奥には島庄遺跡、石舞台古墳、都塚古墳、などなど蘇我氏の遺跡の中でも最も有名な場所がずらりと並んでいますが、今回は遠望するのみでした。
甘樫丘の尾根を歩いて向かうのは甘樫丘東麓遺跡です。ここは日本書紀に書かれている蝦夷の「上の宮門」、入鹿の「谷の宮門」と呼ばれた、それぞれの邸宅があった場所とされています。
乙巳の変の際、蝦夷はこの邸宅に火を放って死んだといわれており、焼土の堆積や、7世紀前半の大規模な整地や石垣の存在、7世紀半ばには再び大規模な整地が行われ、7世紀後半にかけて、建物を建て替えながら継続的に使用された跡がうかがえます。ただ建物の規模が小さく、今後も調査され、全容が解明されるのはまだ先のことかも知れません。
さて、次は2015年1月に発見された小山田古墳に到着。最近では一番大きな話題を呼びました。1辺が約50メートルの方墳で、舒明天皇の初葬墓である「滑谷岡陵」ではないかとされましたが、別の研究者は、蝦夷・入鹿親子が生前に造ったといわれている『今来の双墓』の蘇我蝦夷の「大陵」で、すぐ西にある、菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」にあたるという考えをしています。
ところが今年(2017年1月)に別のところを調査したところ、横穴式の羨道部が見つかり、1辺70メートルという全国でも最大級の巨大方墳と判明しました。橿原考古学研究所は「舒明天皇の初葬墓の可能性がさらに高まった」としています。築造年代も640年ごろと分かり、舒明天皇の崩御の時期(641年)に合うこともわかりました。
そして、すぐ西側の菖蒲池古墳の見学をしました。明治時代は、石室が露出した状態でしたが、今は覆屋があり、竜山石製のくりぬき式家型石棺が2基南北に並んでいます。被葬者についてもいろいろな説がありますが、現在は小山田遺跡との関連が取りざたされています。謎の多い古墳ですね。
次に宮ケ原1・2号墳の話を道端で聞きました。というのも宅地の造成で今は住宅が建っており、完全に地下に埋もれてしまったもので、2基の石室が東西に並んで構築されていました。
これもまた蝦夷と入鹿の「今来の双墓」の可能性も・・・・。
さらに古代の古墳の中で被葬者が確定されている数少ない古墳である「天武・持統合葬陵」を通り、精緻な切石で造られていることが分かっている金塚古墳(平田岩屋古墳)を過ぎ、欽明天皇陵と言われている、「梅山古墳」に到着。ここの周濠も文久の修陵時に造られており、明日香では最大の前方後円墳です。被葬者も欽明天皇、蘇我稲目が挙げられており、葺石が見事だったそうです。
「稲目さんもあちこち言われて忙しいなあ」と富田さん。全くです。
皆さん、大笑い!
次いで、すぐ横の「吉備姫王墓」に行きました。猿石が4体おかれています。これも飛鳥を代表するミステリーストーンの一つです。
「吉備姫王」は天智、天武天皇の祖母で、この方の墓も飛鳥駅のすぐ西にある「岩屋山古墳」が候補に挙げられています。
これにて、今回の「蘇我氏ゆかりの地を巡る」ツアーは終了しました。
盛りだくさんで、よく歩きました!歩数計は2万歩を超えていました。
まだまだ謎の多い明日香、これからどんな大発見があるのでしょう!?
いつもわくわくさせてくれるところです。楽しかった!
文 西口つねみ 写真 田中昌弘