史跡探訪グループ 「粟原の古墳と粟原寺跡を訪ねる」

2020年2月15日

近頃ではめずらしく梅雨のような雨が続き、開催日の天候が心配でしたが、前々日からの雨は止むも、当日はまだ雨が心配な空模様でした。
もう一つ心配がありました。探訪グループは長く休んでいましたので、本当に参加して頂けるかです。1週前に募集を締めましたら31名の方々の参加申込があり、ホットしました。当日欠席された方2名を含め合計27名の参加となりました。
最初に訪れる予定の花山塚古墳は笠間辻のバス停を降りてすぐ、ケモノ道のような登り坂があり、ここしばらくの雨降りを考え、また帰路に車の激しい国道を多人数で下ることも考え、花山塚古墳の訪問を中止としました。花山塚古墳は今回の目玉でしたので、参加者から不満の声が掛かりましたが安全大第一を優先しました。(またチャンスをみて、再挑戦しなければと強く思いました。)
粟原寺跡は談山神社に保存されている三重塔の伏鉢に「比売朝臣額田」の銘があり、額田王女と伝わっています。十三重石塔の側に額田王女と大海人皇子の子弓削皇子の万葉歌碑があります。この万葉歌はストレートに読むと恋歌のようですが、額田王女60才台、弓削皇子20才台で、共に大海皇子を偲んだ歌と解釈したほうが歌の深みがあります。
これから訪ねる石位寺、鏡王女墓、玉津島明神、忍坂坐生根(いくね)神社には額田王女の伝説が潜んでいます。本日の額田王女との最初の出会いとなりました。

粟原寺跡万葉歌碑

石室まで光が届いている越塚古墳は、暗闇の赤坂天王山古墳の石室構造を学ぶに都合のよい古墳でした。羨道と玄室の構造もほぼ同じですが、越塚は羨道が短く、玄室内の礫石の撒かれ方がまとまっていて、羨道と石室の区分がよくわかります。石棺は双方とも二上山白石の家形石棺ですが、越塚は組合式家形石棺で、石棺壁の一部が残っていて、溝が刻まれて石板の組合せ方が分かります。天王山は刳抜式家形石棺です。
天王山古墳は崇峻天皇の生前に造られた寿陵で、崇峻が殺害され、殯もなく日を待たずに葬られました。天王山古墳は崇峻が仮に埋葬された墓で、数年後に法隆寺の藤ノ木古墳に葬られたとする森浩一さんの説を披露しました。刳抜式石棺の前に、盗掘するには大きすぎる穴が開いていて、森浩一さんはこの穴から崇峻の遺体を外へ運んだと推定しています。よく見るとこの穴の周りに四角形に石壁が薄く削られています。前もって遺体を移すために削っていたかもしれない。また、このような大型石室・石棺の古墳で、副葬品が全く発見されていないことも、前もって改葬が考えられていたと考えても不思議ではないでしょう。なお法隆寺では現在の藤ノ木古墳を「陵山古墳・みささぎやまこふん」とよび明治政府から干渉されるまで崇峻天皇として祭祀を行っていたそうです。

天王山古墳入り口

石位寺本尊の三尊石仏は修繕もかねて東京国立博物館へ貸し出し中です。東京国立博物館でこの三尊石仏を拝観されて、東京から参加された会員の方が見えられとても嬉しく思いました。
桜井にお住まいの東田さんの計らいもありまして、お寺の収蔵庫も開けて頂き、庫裏も開けて頂き昼食の場にもさせて頂きました。感謝です。
日本に伝わる最古級の石仏で、伝来についても多くの伝説が残っています。その中に粟原寺に祀られて額田王女の念持仏であった伝説があり、粟原寺の山崩れで石位寺に流れ着いたとも言われています。
石は角の円くなった亜円礫で、浸食され空洞になっているところもあり、少なくとも畿内で見られない石とのことです。また三尊仏は橘寺の塼仏と同じモチーフで構成され、北魏の交脚弥勒仏のモチーフに原型が求められます。尊顔も優しいおもむきのなかにアーカイックスマイルのようにも感じられ、中国から伝来した説も強く残ります。

石位寺

段ノ塚古墳の舒明天皇陵から中尾山古墳の文武天皇陵まで、八角形古墳で全て天皇陵と見られます。これらの古墳を考古学では、古墳時代後期のあとで終末期古墳に分類しています。この後、称徳陵や平城陵も古墳を採用しているが、古墳時代終末期とは切り離して考えています。
中国古来の思想とされる道教では、世界観に八角形思想があり、その中心に天帝が位置し世界に君臨するとしている。その中心位置に星座の北斗七星があり、天帝思想が北斗七星思想にも広がっていきました。この天帝思想が、日本では全ての大王を超える世界に君臨する存在として天皇が生み出され、これまでの大王の前方後円墳を超えて八角形の墳墓を創設したと考えられています。この八角形思想は現代でも天皇の即位礼の大嘗祭に使われる高御座にも見られます。また仏教へも伝わり、法隆寺夢殿や興福寺北円堂、南円堂、栄山寺八角円堂に見られます。これらの円堂は政治的支配者の霊廟と考えられています。平安時代の密教曼荼羅にも見ることができます。
鏡王女墓は天智天皇の妃で額田王女の姉といわれています。「延喜式」では舒明陵の域内に墓があるとされ、年齢からも舒明天皇の皇女とも推定されます。そうであれば、天智。天武の姉妹となる。後に藤原鎌足の正室となり、藤原家菩提寺興福寺の前身山科寺を建立したと伝わっています。
他方、藤原鎌足は「・・・安見児得たり」と万葉集で歌っている。安見児(やすみこ)は天智天皇の采女で、美人の采女を得たことを高らかに歌っていますと通常は解釈されます。この時安見児にはお腹に天智の子がいたといわれる。天智の子も一緒に授かったことを誇って歌ったのかもしれません。采女の名に「児」の文字が使われていることも見逃せません。
この子は後の藤原不比等ではないかと思います。その理由は第一鎌足の長男は定慧で僧侶です。次男が不比等とされます。長男が僧侶で次男の名が「史・ふひと」という文書を扱う部を名乗っている。長男・次男の身分が逆に見え不自然に思えます。また不比等は平城京遷都後では天皇のレガリアとしての「黒作懸佩刀・くろつくりかけはきのかたな」を、文武~聖武まで男系天皇になるまでの保管し、皇位継承の重要人物となっている。当時の持統・元明・元正天皇も、不比等が天智の子であることを理解し政権の中心に据え男子の聖武天皇に継いだと思われます。
ひょっとすると、不比等は母の安見児を額田王女の才能を加えて、采女の身分でなく藤原鎌足の正室の鏡王女として、舒明天皇陵域に墓を造り祭祀した。と見たら深読み過ぎか・・・

鏡女王墓

玉津島明神は衣通姫(そとおりひめ)が祀られています。肌の輝きが衣を通して輝いているところから「衣通姫」とよばれますが、古事記では允恭天皇の9人の子供のうち5番目の「軽皇女」です。雄略天皇の姉にあたります。日本書紀では允恭天皇の皇后大中の妹、弟姫(おとひめ)です。この弟姫と允恭天皇の歌が日本書紀に収められています。それは倭の五王の済とされる允恭の時代の歌ではなく日本書紀の成立した奈良時代の歌と思われます。衣通姫は和歌山の玉津島神社では和歌三神の柿本人麻呂、山辺赤人と並んで祀られています。この二人と並ぶ万葉歌人は額田王女しがいないと思います。
さらに、玉津島明神から朝倉駅に向かって行きますと、忍坂坐生根(いくね)神社があります。祭神に天津彦根命が祀られています。この神様は息長氏の祖神とされます。息長氏は近江の豪族で額田氏はその一族です。忍坂は息長氏の大和の拠点でした。允恭の皇后大中姫は近江出身です、妹の衣通姫も近江出身となります。すなわち額田王女も衣通姫も近江出身なのです。
衣通姫は倭の五王時代の允恭の時代です。額田王女は天智と天武の時代です。200年ほどの隔たりがあります。こうしてみると、衣通姫は額田王女をモデルにした姫であったと考えられ特に日本書紀では潤色されているのではないかと思われます。ですから万葉集に衣通姫の歌がないのでしょう。
ちなみに額田王女の「あかねさす紫野行き標野行き・・・」の万葉歌の紫野・標野は近江の蒲生の地で豪族息長氏の拠点と考えられています。
古事記ではまた別の見方ができます。豪族息長氏と豪族葛城氏との戦いで最後に、雄略天皇に葛城氏が滅ぼされることになるカギを衣通姫が持っています。
参加された方々に感謝いたします。特に昨年新たにソムリエの会に入られ史跡探訪グループに所属された方はイベントが開催されないことに疑問を持たれたかとも思います。これからはイベント開催数も重ねて行きたいと思っています。多くの方が参加して頂けると元気が出ますので、これからも参加して頂けるものと期待しています。

史跡探訪グループ 加藤 宣男