史跡探訪サークル「宇陀松山 春の散策と大願寺の薬草料理」

3月25日(土)史跡探訪サークル今年度2回目「宇陀松山 春の散策と大願寺の薬草料理」を実施しました。19名が参加して春の宇陀松山を楽しみました。

集合は道の駅宇陀路大宇陀です。心配された天気も雨に降られずに何とか開催することができました。

集合場所に向かう道々桜が咲いてきていました。急遽予定変更です。当初予定になかった又兵衛桜も開花しているようで、又兵衛桜へ向かうことになりました。参加者の方々からは、喜びの声があちこちから聞かれ拍手が自然と興りました。

まず、最初に訪れたのは、阿騎野・人麻呂公園です。阿騎野・人麻呂公園は、平成9(1997)年オープンの公園で、平成7(1995)年発掘調査された中ノ庄遺跡が公園整備されたものです。周辺は、飛鳥時代、「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)であったと伝えられています。園内には、故中山正實画伯による壁画「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち掘立柱建物や竪穴式住居が復元されています。

続いて、本日のメインとなった又兵衛桜。満開近い状態で、花びらも散っておらず、素晴らしい開花状況でした。又兵衛桜は、樹齢300年ともいわれる枝垂れ桜で、高さ13m、幹回り3mを超える巨木で「桜祭り」には、例年数万人の人で賑わいます。

次は、宇陀市中央公民館です。ここの大ホールに、中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」が、展示されています。事前に許可を得、拝見させていただきました。

壁画「阿騎野の朝」は、大和国士館(旧奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)の壁画として製作されたもので、そのモチーフはかの有名な柿本人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」という歌の情景です。この歌は、持統6(692)年に行われた軽皇子の阿騎野への遊猟の時詠まれたものです。

この壁画を拝見すると、直接描かれているわけではないのですが、軽皇子に対する持統天皇の深い愛情と大きな期待を感じてしまいます。天武天皇の後継として期待していたわが子草壁皇子を皇位継承の目前に亡くしました。母としての悲しみに沈みながらも孫である軽皇子の成長に期待するおばあさんの気持ちが、今まさに明けようとする山々から感じられ手前の焚火の光が希望の光であるようにも感じてしまいます。

 次は、本日のもう一つのメイン、大願寺の薬草料理です。

大願寺は、聖徳太子建立と伝わり、宇陀松山藩主織田家の祈願所であった由緒ある寺院であるとともに、薬草料理でも有名です。芽生えたばかりの薬草のてんぷらや名産の吉野葛のお造り等々、手間暇かけられたお料理の数々が次々と提供されました。

食事の合間にお一人お一人、自己紹介をしていただきました。コロナも落ち着き、これからの活動が楽しみというお声もありました。史跡探訪サークルで、このような形でお互いに自己紹介をすることは初めてで、とても和やかな雰囲気で食事をいただきました。

食事の後には、松浦さんに大和ハープの演奏を披露いただき、春にふさわしい音色を楽しませていただきました。

 

食事の後は、重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区の散策と、その地区内にある森野旧薬園の見学です。

宇陀松山地区は、戦国時代「宇陀三将」と称された秋山氏が居城を構え、その城下集落として誕生し、織田家松山藩の治世を経て、幕府領と移り変わっていく中で、商家町として栄え、その活況ぶりから「松山千軒」「宇陀千軒」とも称されました。また、薬町としても栄え、江戸時代後期には50軒を超える薬問屋があったとのことです。宇陀出身の製薬会社創業者も数多くおられます。

森野旧薬園は、森野吉野葛本舗第11代当主森野藤助が自宅の裏山に享保14(1792)年に開いた日本最古の薬園で、約250種の薬草木が植えられています。森野家は、もと大和国吉野郡下市に居住、その後、より上質の水、寒冷な気候を求めて現在の地「大宇陀」に移住されました。その後、吉野葛、薬草に加えカタクリの根を精製した「かたくり粉」などの製造を手掛けて現在に至っています。薬園内には、この時期、カタクリの花が咲き誇っています。今日は、残念ながら曇りのため、多くの花が閉じた状態でした。

広い庭園を散策してみますと、思いのほかきつい坂があり、日ごろの運動不足を感じる方もおられるようでした。とはいえ、園内はよく整備され、草木の名前も丁寧に表示され、じっくりと時間をかけ訪れてみたい立派な庭園でした。

以上、春の大宇陀・松山を楽しんだ一日でした。

なお、次回は10月ごろに、天理トレイルセンターあたりの散策を企画しています。お楽しみに。

史跡探訪サークル    文書作成者 秋山 博隆  写真撮影者 大谷 巳弥子