毛原廃寺跡

皆さん今日は 毎日暑い日が続きますがお元気でご活躍のことと存じます
今回は 奈良県山添村にある毛原廃寺跡についての見学体験記です
いま 友の会には各地のガイドの要請が入ってきていますが 奈良市街や明日香斑鳩といった定番地域は担当していただける方は多いと思いますが 山添村などとなると手を挙げてくれる人は少ないと思います
友の会としては奈良県全域を対象としていますので このような地域にも目を向ける必要もあると考えます
山添村は奈良県の北東にあり三重県名張市などと境界を接しています 村の人口は4000人 人口密度は63人/1㎢ まことに緑豊かな広大な山村であります 2003年には奈良市との合併の話がありましたが住民の反対で実現していません 今では山村独立王国の様相さえうかがえます
村のHPには「1200年前の縄文時代草創期からの長い歴史と伝統が息づき・・」とあるように村のあちこちには歴史上著名な史跡が点在しています
かつて 飛鳥・奈良時代には大海人皇子の行軍ルートや聖武天皇の東国行幸の道がこの山添村を通過したとも言われています また大寺院毛原廃寺が建立された時代はこの地域も平城京と同じように光り輝いていたかもしれません
さて前置きが長くなりましたが この毛原廃寺跡は寺院跡の礎石の多さで大変有名でその数は「大和志料」によれば170を数えたとされています
いま奈良県で礎石の残る廃寺跡は 尼寺廃寺跡 本薬師寺跡 川原寺跡 比曾寺跡 栗原寺跡 駒帰廃寺跡等がよく知られていますが 金堂をはじめ中門 南門 塔 講堂 回廊などの伽藍配置跡が礎石により明確に残っているのも珍しいと思います
毛原廃寺跡は名阪国道神野口ICから15分ほどのところで アップダウンの多い道を進みますと南に開け眼下には木津川の源流の一つである笠間川が見える所に到着します
毛原廃寺跡はこの笠間川の左岸の尾根筋にあります 周囲は毛原の集落で 礎石は神社の中や民家の中 道の真ん中 田畑の中などにあります 個々の礎石を線でつなぐと大伽藍の様子がうかがえます その礎石たるや一辺1m以上のかなり大きななもので 中には1,5m程のもあります
まず金堂ですが間口7間(23,6m)奥行4間(13,3m)の規模で 唐招提寺の金堂にも匹敵するそうです

毛原廃寺伽藍配置

さらに 金堂跡から南に下ると 中門跡の礎石群 さらにその南の田畑の中に南門跡の礎石が並んでいます
少し気になるのはこの南門跡から南は急傾斜で笠間川の河川敷に続いています これは南門に南から入るには多少不都合です かつてはこのような傾斜はなかったのかもしれないと考えられます
さらに礎石は西塔跡 食堂跡にもあります 食堂跡の礎石はかつて売却に出されその後不明になっていましたが1972年に西宮市の古川古文化研究所から返還されました

毛原廃寺が世に知られるようになったのは古く 明治30年代に関野貞博士が調査いて伽藍跡と断定したそうです その後いち早く大正15年には国の史跡名勝天然記念物に指定されました 平城宮跡が指定された4年後のことです
これほどの規模を誇る大伽藍でありながら寺に関する資料は何もなく謎の寺幻の寺であります
山添村によりますと 「この地域は東大寺大仏殿建立のために勅施入された東大寺領板蠅(いたばえ)の杣の境域内にあり 毛原廃寺は東大寺の杣支配所とも考えられ奈良時代の謎の大寺院として国指定史跡になっています」としています また出土した軒丸瓦は蓮華文様 軒平瓦は唐草文様でいずれも奈良時代後期の物と考えられるとしています
なおこれらの出土瓦などは山添村歴史民族資料館に展示されています この資料館は春日小学校旧講堂を活用しており建物は奈良県指定文化財です

山添村歴史民俗資料館

以上簡単な説明で終わりますが毛原廃寺に関する文献は直木幸次郎著の「日本古代国家の成立Ⅲ古道」など多くの文献があるので参考にしてください なお 先ほど示しました通り礎石のある寺院跡は数多くあります かつては栄光を極めた時期もある廃寺に想いを馳せたく私も一通りまわりましたが 1回ぐらいの知見では本来の姿は見えません 機会あるごとに再度再々度見学したいと思います

2011,8,30 奈良まほろばソムリエ友の会 小北博孝