「竹内街道を往く」感想記
12/6(日)実施・・・参加者18名
コース : 近鉄上の太子駅→叡福寺(聖徳太子御廟)→用明天皇陵→孝徳天皇陵→ →竹内街道歴史資料館→竹内街道→ろくわたりの道→ →鹿谷寺跡→竹内街道竹内峠→綿弓塚→長尾神社 →近鉄磐城駅で解散
またも雨かという心配しましたが、本日は曇り空。ウォークには最適な環境です。近鉄上ノ太子駅から竹内街道沿いに「竹内街道」の幟が至る所に立ち、随所に案内標示が設置されている。太子町のマンホールには「和を以って貴しと為す」が刻まれている。竹内街道は「日本書記」の推古天皇21年(613年)に「難波より京に至る大道を置く」と記録され、日本最古の官道と言われている。2013年には1400周年を迎えた。
最初に叡福寺・聖徳太子御廟に行く。聖徳太子御廟は径50mの円墳、内部は切石造りの横穴式石室で奥に太子の母穴穂部間人皇后の石棺、手前に太子と太子妃膳郎女の夾紵棺が安置され「三骨一廟」と言うらしい。
次に用明天皇陵(一辺100mの方墳)を見て、孝徳天皇陵に至る。「うぐいすの陵」と枕草子で紹介されているが、正面までは立ち入れず。孝徳陵に入る街道沿いに「大道旧山本家住宅」がある。入館は11月末までで外からのみの見学となるが、堂々とした「大和棟」の民家である。
太子町立竹内街道歴史資料館では、副館長による、難波宮から大和に至る難波大道→丹比道・竹内街道→横大路に纏わる館内展示の説明を受ける。また、「ろくわたりみち」はけものみちでお勧めできないとのことであった。それで思い出した。澤田瞳子さんの小説「日輪の賦」は、紀伊の国牟婁の評督阿古志連廣手が藤原京に大舎人として出仕するために竹内峠と越え、けものみちを急いだが、盗賊に襲われるところから物語がはじまる。
竹内街道から万葉の森に入り、やや急な坂道を息を荒げながら登ると、鹿谷寺跡にたどり着く。奈良時代の石窟寺院跡で地山を彫り残して作り出した十三重石塔と、やや判りにくいが如来坐像三体を線彫りにした石窟が残る。それから、もう一息、急な坂道を登りきると「展望台」がある。大阪平野、アベノハルカスまで眺望できる。また木々が黄色く色づき爽快気分になる。二上山の紅葉も眼にやさしい。
いよいよ竹内峠越え。国道166号線の脇に「従是東奈良縣管轄」の石柱とともに、鶯の関跡の文学碑
我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関 康資王母作(司馬遼太郎揮亳)
眼下には、もう畝傍山もみえてくる。古代人は国のまほろばを感じつつ、藤原京の威容に感動し、国の未来に希望を重ねて坂を下って行ったのであろう。竹内の家並みは、旧街道の佇まいを感じさせる。
芭蕉ゆかりの「綿弓塚」の休憩所で小休止。投句用紙が備え付けてあり、一句捻るメンバーも・・・
*綿弓:繰り綿をはじき打って打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦として古くは牛の筋、のちには鯨の筋を張ったもので、弦を弾いて綿を打つ。また、司馬遼太郎さんの母親の実家(河村家)が近くの街道沿いにある。{街道をゆく}メンバーも司馬さんの話で盛り上がる。
最後の目的地長尾神社は竹内街道・長尾街道から大道「横大路」に連なる西側の入り口で古代主要街道の起点に鎮座することから、交通安全・旅行安全の神社として信仰されている。参拝中、若い夫婦が赤ちゃんを抱いてお宮参り。「絵馬殿」ではたくさんの絵馬が奉納されており、地元の信仰心の厚さが感じられる。長尾神社の鳥居前、予定時刻午後3時30分、参加者全員無事帰着。
文:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 松浦忠利 写真:同 小林俊夫