史跡探訪サークル 「聖徳太子御廟前から王陵の谷と呼ばれる磯長谷古墳群をめぐる」
5月16日(土)、史跡探訪サークルは、今年度最初の企画としてサークルの会員から希望が多く寄せられた「聖徳太子御廟前から王陵の谷と呼ばれる磯長谷古墳群をめぐる」を実施し、24人が参加しました。上の太子駅前からバスに乗り、福寺御廟前下車、叡福寺山門前で全員集合し、当日の行程、注意事項を案内したのち、2班に分かれ出発しました。
叡福寺は622年、聖徳太子の御廟を守るために推古天皇が建立したと伝わります。
南大門から、入るとそこには 宝塔、金堂、宝蔵、聖霊殿とじっくり見てまわりたい建造物群が広がっています。織田信長の兵火により、一時は全山焼失しましたが、豊臣秀頼公による聖霊殿の再建に始まり、順次伽藍が再興されました。この聖霊殿には秀頼公の擬宝珠が残されています。


二天門を上ると、目の前に聖徳太子御廟があります。
直径54.3m、高さ7.2mの円墳。横穴式石室で、太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟です。
廟の正面、扉の上には阿弥陀三尊のご来迎をあらわした木彫りの額がかかっています。この額は叡福寺の玄雅が延享3年(1746)に寄進したものとされ、三骨一廟の意味を表していると言われています。
墳丘は二重の結界石により保護。内側の結界石は凝灰岩製で、空海の作と伝えられています。
外側の結界石は享保年間に造られた花崗岩製のもので、中段448枚、下段478枚。
御廟の裏山五字ケ峯の頂上には、結界石に囲われた宝篋印塔があります。
推古天皇6年(598)、聖徳太子は甲斐国より献上された「黒駒」に乗り、全国を巡視されました。その折、富士山頂から西方の河内国(現在の大阪府南東部)を望むと、美しい五色の虹が架かるのが見えました。太子はそこを自らの終焉の地(廟所)にふさわしい霊地と直感し、目指して来られたのがこの地であるという伝説が今に伝わっています。

叡福寺の外にある和の広場に足を運ぶと、三骨一廟の石室模型が屋外展示され、太子御廟の石室状況がよく分かります。


次に西方院に向いました。
道路を挟んでたたずむ西方院。その石段を一段ずつ上る皆さんの姿は、さながら菩薩の来迎を現出させているかのようでした。
寺伝では、聖徳太子没後三人の乳母月益(蘇我馬子の娘)、日益(小野妹子の娘)、玉照姫(物部守屋の娘)が出家し、太子追福のため墓前に堂宇を建立したことに始まるとされています。聖徳太子詣には欠かせない寺院で、三尼公(善信・禅蔵、恵善)のお墓がありました。


次は、伝蘇我馬子の墓を見にいきました。
お墓といっても古墳ではなく「多層塔」で構成された小さな区画です。植木家墳墓は、蘇我馬子のお墓だという伝説があり、古くから土地の人々によって「蘇我馬子の塚」と伝えられています。
小野妹子の墓という記録も残っており、真実は定かではありませんが、蘇我氏一族ゆかりの地に霊を祀る遺跡とも思われています。確かにこのまわりには、蘇我氏という表札が多くありました。

次に王陵谷 天皇陵を順番にみていきます。
聖徳太子の父親 第31代用明天皇陵に向いましした。太子町立中学校の西側に周囲の空壕を含めて一辺100mに達する方墳がありました。7世紀前半 横穴式石室で墳丘は東西65m、南北60m、高さ10mの三段階構成の方墳。ここからの西側の眺望は抜群でした。
次は、第33代推古天皇陵に向いました。聖徳太子を摂政とし、飛鳥文化の花を咲かせた日本初の女帝。
死後、その遺言によって、先に亡くなられた御子、竹田皇子と一緒に葬られたとされています。
東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。
ここから南に向けて、何も遮るものがなく王陵の主の陵墓です。
この場所で昼食をとる予定でした。しかし、日射しをさえぎる陰がないので、二子塚古墳休憩所で昼食。日陰でゆっくりと食事をとり、心地よい風に拭かれて休憩をいたしました。
昼食後は、二子塚古墳に向かいました。
現在、整備作業途中で古墳には入れません。外からの見学です。推古天皇陵の南東200mにある双方墳という珍しい古墳。連続した2つの方墳にほぼ同形同大の横穴式石室と家形石棺がおさめられていました。地元にはこの古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるという言い伝えもあります。
整備作業が終われば是非とも見学したい古墳です。

王陵古墳もあと少しです。暑い日になりましたが元気に歩いて行きましょう。
科長神社(しながじんじゃ)から、小野妹子廟(墓)に向いました。歩きつかれた皆さんの休憩もかね、科長神社参拝後は境内で暫く小休止。熱中症にならないように水分補給につとめました。
科長神社は、太子町唯一の式内社。磯長津彦命、磯長津姫命など8柱を祀るために八社大明神とも呼ばれています。


休憩も十分とり、次は 神社横の階段を登り小野妹子廟(墓)に向いました。足に堪えますが登り切ってしまえば、眺めがよく、自然豊かな小高い丘の上に位置する小さな塚です。
推古天皇の時代に遣隋使として、隋という大国に派遣された著名な人物。妹子が聖徳太子の守り本尊如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、塚は池坊によって管理されています。

太子町を一望出来る景勝地を楽しみ、元気を貰い 最後の見学先孝徳天皇陵に進んでいきました。
山沿いの細い道から、交通量が多い竹内街道に出て少し進んでいくと大化元年(645)に即位された第36代孝徳天皇陵の入口に到着。直径30m余りの円墳で「うぐいすの陵」の名で枕草紙にも紹介される美しい御陵です。飛鳥の高松塚から出土したものと同じ海獣葡萄鏡が出土しています。
さあ、最後の力を振り絞り階段を登りました。残念ながら、正面は崖となっており東側からの参拝しか出来ません。これで王陵の谷磯長谷古墳群めぐりは終了いたしました。
最後は、太子町竹内街道歴史資料館に向い今日訪れた場所の復習をしました。
お疲れ様でした。ここで、帰りのバス乗車時刻までお過ごしください。
六枚橋東バス停まで歩き、上の太子駅までバスに乗ります。暑い中の道中お疲れ様でした。
解散場所の上の太子駅に到着です。
「聖徳太子御廟前から王陵の谷と呼ばれる磯長谷古墳群をめぐる」を楽しんだ一日でした。
史跡探訪サークル 文・写真 松浦文子

